【人間考】「理解ある○○人」に救われないタイプの人間
※○○には近しい家族や恋人、友人が入ります
辛い時、苦しい時に誰かに支えてほしい、という感覚は、多くの人が持ち合わせていると思う。危機に瀕した時に、自分を見捨てずにそばにいてくれる人がいれば、どれだけ心強いだろうか。不安な夜、誰かがそばにいてくれたら、どれほど救いになるだろうか…こんなことを、良い歳して考えてしまう人だって、少なくはないだろう。
同様に、自分自身も、自分にとって大事な誰かが苦しんでいる時や悩んでいる時、「何もできなくてもその人のそばにいたい」と感じるし、それが「愛情」であり、それが人間同士の「関係」であり、それによって「安心」したいという欲求がある人も多いのではないだろうか。
他人と自分とが与え合う「安心」という膜に包まれていたい。
私自身は、特に、子供の頃はずっとそう考えていたものである。
しかしながら、成長過程で、他人のもたらす「安心」に触れてくる機会のなかった人間にとっては、人格が作られる時期にはこれらを渇望する一方で、人格がある程度完成してから後はこれらが無意識的な恐怖になるということも起きてくる。
その手のタイプの人間にとっては、「理解ある他人」、「自分に好意的な他人」が実際に身近に生じることで逆に精神が不安定になり、人生の調子が悪くなることすらあるのである。
私は、「理解ある他人」がいることで、調子が悪くなる人は、主に次の性質を備えた人ではないかと考えている。
1.他人を信用できない人間
他人を信用できない人間にとって、弱っている時にそばにいる人間は時に「脅威」に感じられるものである。
「弱みを見られた」
「弱っている時に何か悪いことを吹っ掛けられるのではないか」
「弱っている自分をみて馬鹿にしているのだろうか」
etc...
冒頭で述べたとおり、弱った人間に対して「好意」で寄り添おうとする人間もいるし、実際に自分も第三者に対してはそのつもりだが、現実問題として、弱っている時に殴りかかってくる人間もそこそこいるため、調子の良い時には違和感がなかった親密な関係の人間にさえ、猜疑心を向けてしまうのである。
※他人を信用できなくなるのは、弱っている時にフルスイングでトドメを刺しにくる近しい人間に遭遇した経験からくることも多いだろう。
結果、親密な関係の人間に対して自己防衛本能からくる敵意を向けてしまったり、自身の弱みを過剰に意識するがあまり卑屈になったり、或いはプライドの高さから異常な強がりを発揮してしまい、情動が不審になるのである。
弱っている時期というのは、目の前の課題解決に向けて全力投球するべきであるのだが、変に親密な人間がそばにいることで精神が乱れ、人間関係のクラッシュと課題とを同時並行で実施してしまい、最悪の場合には 全てを失う という結末になってしまう。
〈どうすればいいのか〉
他人を信用できるかできないか、という感覚は、成長環境で植え付けられたものでもあるし、おそらくは遺伝的要因も関連しているのではないかと思う。いずれにせよ、すぐに解決できるものではない。
何かの問題に直面した際に、身近にいる人間を心から信用できない場合は、一旦身近に人間がいるということを頭の外に放り出すのが良いかもしれない。
短い別れでも良いし、事情を話して距離を置いてもらう、でも良いだろう。とにかく、「困った時にそばで見守ってくれる人間」というのを、一旦頭の外に出した方がいいかもしれない。
特に、自分にうっかり依頼心や依存心が出て仕舞えば、自分から依頼や依存し始めたくせに相手を信用できなくなり、自分の弱みを握られたという恐怖感からその関係をぶち壊しにかかってしまう。
完全なる破壊行動に移る前に、まずは距離を置き、自分は問題課題の解決に専心する、というのも、必要なことである。
2.失うことへの恐怖が得ることの喜びよりも優ってしまうタイプの人間
学生時代、あるいは社会に出て間もないころ出会った、「結果を出している人間」や「恵まれた地位についた人間」を思い出してみてほしい。
色んなことにチャレンジして、失敗を恐れず積極的にリスクを取りにいける人間の多くは、親が裕福であったり、愛情深い家庭に育った人間ではなかっただろうか。
大学受験の例などを出すと分かりやすいかもしれない。一発勝負、浪人不可、ダメなら高卒で就職、というような環境において、「一か八かの勝負」を狙うのは大変難しく、必然的に、浪人可能、予備校通い可能、他大学併願可能、である余裕のある人間の方が勝負に出やすくなるだろう。
もちろんそうでない人間もいるし、世間は自主自立の苦労話が好きなので、目立つのは「地べたから自力で這い上がってきた人間のサクセスストーリー」であるが、多くの人間にはその馬力はないので、せいぜい「今いる場所から少なくとも落ちないようにする努力」や、「確実に取れるものを取っていく努力」である。
そういった環境下で、安全や安心を過剰に求める姿勢というのが醸造されてしまうと、それを手に入れた後是が非でもこれを手放すまい、と強く執着してしまうことがある。
元々が欠乏感あふれる人間であるため、一度得たものを失う恐怖と予期不安に耐えられる器ではないのである。
こうなると、仕事においては転職もできなくなるし、進路においても違和感を覚えつつ見直すことができなくなるし、対人関係においては「何が何でも相手の関心を自分に向けさせ続けなければならない」という意識に支配され、純粋な関係性を楽しめなくなるのである。
悲しいかな、この執着こそが、対人関係などにおいて忌避される「重さ」「負担感」「面倒臭さ」に直結しているのだ。
さらに、その重さを自覚した後はもう「だったらさっさと終わってくれ」とばかりに人間関係の破壊行動をとってしまい、雑に解散するなどということも発生する。
また、「相手の自分への好意が最高潮に達してしまい、あとはもう下がるだけかもしれない」と感じた時にも同様のムーブメントに陥りやすくなる。
人間関係もジェットコースター同様、落ちる手前までが一番恐ろしく、その後は案外平気だったりするので、嫌われかけた時の適切なフォローや、好意の緩やかな低下に耐えられずに、いきなりアクセル全開にして相手を攻撃し、追い払ってしまうのである。
〈どうすればいいのか〉
「自分に関心を持ってもらう」ことを目指してしまうとお互いにとって大変不幸なことになるため、身近に人間を置くとしたら、お互いへの個人的な感情を抜きにしたドライな相手を選ぶ、ということが大事かもしれない。
何かしらの趣味の師匠
仕事の取引先である程度気が合いそうな人間
など、感情を抜きにしても、実利的な関係のある人間との関わりを中心にした方が良いかもしれない。
これを私は「社会的な場での人間関係」と表現しているが、なるべく閉じた人間関係は避ける、ということである。
「実利」が前面に来た場合は、相手の感情に対しての依存度が薄まるため、感情や好意メインで繋がっている関係性よりも安定しやすいのではないかと思う。
掛け値なしでの感情の交流は、自身がそれに過剰な期待を寄せないで済むまでに成熟してからとするのがいいかもしれない。
3.安定が不安定、不安定が安定、になってしまっている人
人付き合いにおいて、「仲良い人との方がよく喧嘩するタイプ」と「仲良い人とはほとんど喧嘩しないタイプ」、大きく分けて2種類の人間がいると思う。
「仲良い人との方がよく喧嘩するタイプ」については、「親しいからこそ言いたいことを言う」とか「一緒に過ごす時間が長いので喧嘩が起こる機会が多い」など、健全な範囲に収まる人間もいるものの、中にはこれを逸脱している人間もいる。
健全な範囲を逸脱して「親しい人間」と揉め事を起こすタイプは、「安定が不安定、不安定が安定」に陥っている可能性が高い。
安定して信頼を寄せ合う関係というのは、関係にそれほど波風が立たず、静かである。しかしながら、「不安定が日常」と化した人間にとっては「安定してるのではなくて無関心にされている」という猜疑心を抱いてしまい、無性に不安感を掻き立てられるのである。
「自分のことを忘れてるのではないか」
「もう関心がなくなったのではないか」
「他に面白いものを見つけてしまったのだろうか」etc...
相手に大意がない場合においても不必要にこの焦燥感にかられ、「自分に無関心になったのではないか」との不安を、攻撃的な形で吐露してしまい、それに相手が乗っかると、大喧嘩になるわけである。なお、喧嘩によって相手がこちらに関心を向けると急に心が穏やかになったりする。
まさに、相手の感情の不安定が自身の感情の安定をもたらす状態になってしまっているのだ。
〈どうすればいいのか〉
要するに他人と安定した関係を保つのが難しいので、関係性そのものを意図的に不安定にするか、やはり自分について最初から意識をしてこない人間と一緒にいるしかないのではないかと思う。
安定した状態こそ不安定、となってしまう心理の奥には、現在安定している、という認識自体はある。おそらくそこに、相手への「甘え」のようなものが発生してしまうのである。自分が簡単には甘えられない人間を選ぶというのが一つの出口になるかもしれない。
または、自分と同じタイプの人間を選ぶと、案外長続きする可能性もある。つまり、不安症で耐えず相手に不安や不満をぶつけるタイプの人間を選ぶということである。耐えずお互いが相手に対して不安定となるため、安定した心地よさは得られないものの、関係性自体は長く続けられる可能性がある。
全体を通して
他人に助けてもらう、そして他人と共に生きていく、というのにしても、「才能が必要」であると思ったりする。
他人に適切に助けてもらえる人は、人との距離の保ち方がとても上手いのだ。
あまり意識されていない気がするが、他人に助けてもらうにしても、対人関係の調整であるとか、助けてほしい時に放つメッセージであるとか、そういうものが上手くなければならない。
そういうセンスのない人間が、うっかり他人に依頼心を持ったり、他人と共に暮らしていこうと思うと、場合によっては自分で自分を助けるよりも多くの気力労力体力を消耗したりする。
弱っている時にこそ、自己の特性をよく理解し、適切な解法を探すことが肝要である。
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