見出し画像

幸せな恋愛

当人にとって幸せであればそれで良い。そのハードルや分類がそれぞれであるべきである、と思う。

先日、胸がいっぱいになるような、そんな恋愛映画を観た。幸せなやつ。

当方柄にもなくロマンチストなため、終始波のある感動を覚えていたことを憶えている。

そんな幸せな恋愛映画で、主人公のいわば“ふたり”とそうでない幸せになれなかった“ふたり”がいた。フォーカスされるべきではないのだろうが、後者のふたりの視点が苦しくてどうしようもなくて、素直に幸せだと言えなかった。

初恋の人をずっと想っている主人公と、その主人公に恋をしてしまった女性。その女性を当て馬かのようにし、最終的に“ふたり”は幸せになった。

初恋の人をずっと想っているヒロインと、そのヒロインを愛してしまった男性。その男性は婚約を破棄され、それを人生の障害かのようにし“ふたり”は幸せになった。

兎角苦しかった。幸せに包まれて感動したいのに、じゃない方の2人が苦しすぎて、もはやなんの涙を流せば良いのか分からなかった。

多分、以前の私であれば能天気に幸せに浸れたのだと思う。今の私の状況が私を苦しくさせているのは間違いない。じゃない方である自信がある。

特に苦しかったのは、ヒロインが良い人だという点。当て馬女性は一体どこに感情をぶつければ良いのか。みっともなく嘆き食い下がり、無理矢理にでも引き留めれば良かったのか?

良い悪いで言えば悪いのである。物語的に見ると、当て馬はさっさと消えるが吉なのである。2人を再燃させるきっかけ材料となり、知らぬところでまた幸せになるのが鉄板である。

「あなたは私の瞳に違う人を見ているのね。」

このセリフがこんなにもずしんと重たく響いてしまう私も、多分そうなのであろう。

そんな当て馬で踏み台な我々が真に幸せになれる方法は、我々を、私をヒロイン/主人公にしてくれる人と一緒になること。自明である。

それでも「好き」という感情がなかなか思うように動いてくれない。

幸せな恋愛映画を観て、幸せだと泣きたいのに。

幸せな恋愛をしていないと、こうも苦しい。

歌も、本も、映画も、当て馬をつい応援してしまう。

私がそうであるから。希望があると信じたいから。

主人公がヒロインを投げ捨て、当て馬である私を選んでくれる、そんな粋なことはしないと思うが。

でもどうしてもその可能性に縋りたくて、私は当て馬としてみっともなく食い下がっている。自由に飛ばせてやれば良いのに。

幸せな恋愛映画で、幸せだ!!!と思いたい。

そんな恋愛ができる日はいつ来るでしょうか。神様。

いいなと思ったら応援しよう!