似て非なる場所

福祉とは、人々の暮らしを支援するものであることに疑いの余地はないであろう。利用者の「生活の質」を上げるがために福祉・介護従事者たちは日夜汗を流し、より良き方法を探って悩んでいる。
しかし、限界がある。与えられたフィールドの中でしか実践を行うことが出来ない。例えば、施設での介護を考えてみると、共同生活という根本的な性格により時間的な制約がある。場所としても好きなところへ行ける訳ではない。勿論、人員的な制限も存在するので、入居者の全員が全員、自分のペースで寝起きをし、行きたいところに出かけて、やりたいことを出来ることは有り得ない。彼ら彼女らの安全を確保することが不可能だからである。

施設で生活する上での入居者の安全とは、まず衣食住が整っていること。命の危険に晒されていないこと。怪我をしないこと。他者とのトラブルにならないこと、である。これらが可能となる環境を考えてみると、非常に似通った場所があることに気付かされる。刑務所である。
犯した罪を償うために受刑者は、決められた刑期の間、看守の管理の下での生活をしなければならない。当然ながらそこに自由は存在しない。ただただ、釈放されるその日を夢見て、日々の単調で不自由な、他人に監視された生活を繰り返していくのである。

福祉施設・介護施設にマイナスのイメージが今なお存在したり、積極的に施設に入りたいと心から思っている人が少なかったりするのは、おそらく、私見ではあるけれど、施設に対して「自由を奪われる場所」という潜在意識があるからではないだろうか。これまで自宅で暮らしていたように、好き勝手は出来ない。家族に苦言を呈されたとしても、行動を強制的に制限されるまではいかない家での暮らしは、自由である。しかし常に他者の目があるという環境下においては、それなりに立ち居振る舞わなければいけなくなってしまう。

常時人の手が必要な心身状態となった要介護高齢者の介護を行うという目的においては、それら高齢者を一つ所に集まってもらい介護するというのが実に合理的であるし、社会の求めるところともマッチしている。理に適った社会システムである。贖罪のために収容する場所と同様であるという気は全くない。が、ややもすれば同等の存在になり得る可能性を持ち合わせていることを、僕たちはどこかで心しておかねばならない。違いを際立たせる必要も、場合によってはあるだろう。
暮らしの支援が「生活の管理」だけになってはいないだろうか。見守りと言う名の「見張り」になっていないか。日々の業務を一つ一つ思い起こすとき、主体が何処にあるかを念頭に置いておけば、簡単にクリアでき、僕たちも専門職で居続けることが出来る。逆も然り。

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