他者理解不可能論
ある日の午後、職場のテレビでワイドショーが映っていて、親が幼子を虐待の末に殺してしまったという事件を報じていた。事件を受けてコメンテーターの何某氏は「お腹を痛めて産んだ我が子を殺めるなんて、とんでもない」と話し、テレビを観ていた利用者さんたちも口々に「何でそういうことになっちゃうんだろうか。考えられない」と痛ましい表情でつぶやいていた。
世間一般的によくある反応だし、決して間違っていないと僕は思うけれど、そのとき何故か、何かが引っ掛かったのである。
また、こんな経験もよくしている。高齢の利用者さんたちと接する中で、「あなたたち若い人には年寄りの気持ちなんてわからない!」と突っぱねられてしまうことである。
確かにそうかもしれない。否、100%完全に理解するなんて、有り得ない。絶対的に不可能である。何故ならば、その体験している本人ではないからである。自分より何十年も人生経験を重ねた高齢者がどんな心持ちでいるのか。何らかの理由で自分の子供に手をかけざるを得なかった親がどんな気持ちなのか。所詮は他人だから、自分の気持ちをそこに同じくさせることは、出来ないのである。
でもそれで終わらせてしまったら、僕たちの仕事は成り立たなくなる。心理学なんて学問も存在しなくなるだろう。そもそも人間同士のコミュニケーションとか気配りとか配慮なんてものは意味を為さなくなってしまう。
結論から言えば、僕たち対人援助者は、相対する相手がどんなことを思い、考えているのか想像し続けるしかない。得られる情報から想像力を最大限増幅して、どうにか近似値に辿り着くことしかできないのである。でもそこから、マイナスの感情ならば少しでも上向きになるように、あるいは折り合えるようにサポートすることが僕たちの仕事の多くを占めている。気持ちに寄り添うなんて簡単に口にしてしまうけれど、実際はとんでもない、ミッション・インポッシブルに臨んでいるってことは知っておいた方がいいかもしれない。特に利用者さんたちのココロに気持ちを寄せようとするとき、認知症を抱えておられる場合は感情と言葉がシンクロしていないことも多いこともある。
だから毎日、瞬間瞬間で知ろうとする努力を重ねなければならない。その上で、色んなソースからの情報を統合して、相手の今の気持ちを予測する。そして、何らか言葉をかけたり触れたりの行動に移るのである。それら言動には、目的がある。その利用者さんが本人らしく(これも想像レベルを超えない表現だが)そのときを過ごすことが出来るため、である。
おそらく無意識のうちに現場で利用者さんたちに日々接しながら、介護士さんや看護師さんは自然にそれが出来ている。しかし、油断すると自分の思いや考え、感情が勝ってしまうことがあることも経験していると思う。自分や集団の価値観でモノを言ってしまったり、認知症の方に理路整然と「常識的に振る舞うよう」説得してしまったり。それこそが現場で避けるべきとされる「上から目線」「子ども扱い」である。
他者を完全に理解しきることなんて、どだい無理なんだと開き直って、だからあくまでも謙虚に、なるべく近づこうというスタンスで臨んでみてはいかがだろうか。分かりようがないけれど、僕たちは決して分からないと諦めないこと。諦めてもOKなら、仕事とは言えまい。そんな安い仕事モドキをするために、僕たちは自分の時間を削ってはいないはず。
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