「ある天文学者の恋文」愛は必ず伝わる
ジュゼッペ・トルナトーレ監督は、「ニューシネマパラダイス」が有名すぎるほど有名です。監督の作品を全部見たことはないけれど「マレーナ」「鑑定士と顔のない依頼人」なども大好き。
「マレーナ」はけっこう酷いんだけど、なぜかひどく憧れて、一時期マレーナになりたかった。今でもなりたい。
「鑑定士と顔のない依頼人」はストーリーもさることながら内装やインテリアが素敵。
どの作品も映像が美しいと思います。
天文学者のエドと教え子のエイミーは、不倫という関係ながら深く愛し合っていた。ある日のこと、エドの訃報を大学の講演会の最中に偶然知るエイミー。現実を受け入れられないエイミーは事実を確認しようと、彼の自宅周辺をうろついてみたり、墓を探してみたり。なぜなら、エイミーの元には、死んだはずのエドからメールや手紙が毎日のように届き続けるからなのです。
実際こういうことが可能かどうか考えてしまいました。映画も割と早いうちにバレますが「協力者がいればできる」のですよね、きっと。
一緒に観ていた母は「いつまでも死んだ人に未練を抱かせるのはよくない!自分なら未練を抱かせるようなことはしたくない!」とエドを否定していました。
ちょっとここで横道にそれますが。この、ウチの母ですが「映画は現実逃避のために見るもん」とはっきりした好みを持っており「MARVEL」やヒーローもの、ファンタジーが大好き。盲信しているのはスピルバーグ監督で、映画の好みはこれでもかというほど非現実に偏っているのに、本作のエドがやったことに関してはひどく現実的なの。
「こんなんありえん!こんなん実際無理よ!」こういう時だけやけにリアリスト。わたしが思うに母は極度のシャイで、ロマンチックがこそばゆくて仕方がないのでしょう。結局、母と見ている間は「マメな男が好きか嫌いか」というどうでもいい議論をして映画も終了。笑
現実に夫を亡くしたわたしは、こんなことがあったら素敵だなとシンプルに思いました。一時しのぎでもいい、作られた奇跡でも構わない。「もう一度声が聞きたい、存在を感じたい」という想いは、きっと残された者なら必ず一度は抱くし、絶対に叶わないとわかっているからこそ、なかなか癒えない痛みでもあります。
それが聞けるし、感じられるのだったら。どれだけ前を向くことができるでしょうか。未練や執着というのは、その対象や関係性に不足感があるからこそ、抱くものなのではないかと思うのです。
エドの場合は反対です。エイミーを愛している。愛して愛して、エイミーもそれをちゃんと受け取る関係にある。これならきっと、エドが仕掛けた奇跡もエイミーの立ち直りを促す助けになるはずです。
話は変わりますが、ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品といえば、曲はエンニオ・モリコーネ。本作は宇宙っぽく終始穏やかでひっそり流れていて、大好きな映画「インターステラー」を思い出しました。
「インターステラー」で好きなセリフがあります。アンハサウェイ扮するブランド博士が言う「愛は観察可能な力」という言葉です。インターステラーも真面目に「宇宙、科学、相対性理論」の物語でありながら、科学的にまだ解明されていない「見えない世界」を描いています。アインシュタインが娘に宛てた「愛のエネルギー」についての有名な手紙がありますが、この映画ニ作品はどちらもその「愛」を描きたいのだろうなと。二作品の共通性を感じました。
今、夜空に見えている星は、実は消滅している可能性があるのだとか。わたしたちが住む地球からは距離が遠すぎるから、こちらに光が届く頃には星がないということもあり得るらしいですね。
「わたしたちは死んだ星の姿を見ている」
死んでいる。けれど、その存在を感じることはできる。
エドが作った仕組みによって、エイミーは救われるわけですが、本当はそんな仕組みがなくてもわたしたちはきっと、死んでしまった人の存在を感じられる。
映画の途中に出てくる黒い犬や、電車と並行して飛ぶ鳥、自然の中。エイミーはエドの面影を見ていたはずです。