ふるさと
「ふるさと」と聞いて、必ず思い出す言葉がある。
『俺のふるさとになってくれ』
連続テレビ小説「ちりとてちん」に出てくるセリフだ。
私はこの言葉に大いに影響を受け、自分にとってのふるさとは、街ではなく人だと思っている。
家族、友人、その他大好きな人たち。いつも励まし勇気をくれる人。そんな人たちと会える場所だから、家もふるさとなんだと思う。
じゃあ街はどうだろう。生まれ育った街に、ふるさととしての愛着が持てないのはなぜだろうか。
それは、この街から出られないままの自分が、行ってきますと朝家を出て、この街で色々な「ひとり」を経験したからだと思う。
鬱屈した気持ちを抱え、いつか出て行ってやると閉鎖的なこの街を目の敵にしていた。
それとは逆に、仕事を辞めてから転職するまでの数ヶ月、家の中でぬくぬくと過ごしたあの日々は、この街の閉鎖性なんてあまり気にならなかった。
だから、私の帰る場所は大切な人たちであるーーそう思っていた。
今日、数ヶ月ぶりにこの街をドライブした。
相変わらず何もない。何の変化もないはず…が、今日は少し違っていた。
古い病院が、もうすぐ壊されて建て直される。学校の教員住宅もかなり古かったので新しく建てている途中。
そして、ある一軒のお家。前職の時に何度か会ったおばあさんの家が、なくなっていた。きっとおばあさんが亡くなってから取り壊したのだろう。
何も変わらないように思えたこの街も、確かに変化し続けている。そのことが少し意外だった。
街の中を見て回り、この街への気持ちに小さな変化があることに気がついた。
帰省する度にバスを降りると人っ子一人いない風景が広がっていて、がらんとしていて寂しい。その時に一瞬よぎる「だからこの街は…」という呆れた気持ちが、これから先もゼロになることはないだろう。
さびれていくことに恐怖心も反抗心も持たず、未来を諦めてしまった街なのかもしれないと思ってしまうから。
でも、街は確かに変化していて、人々の当たり前の生活があるままだった。
それを見ているうちに、何がきっかけかはわからないが、「あぁやっぱり、この街がふるさとなんだな」と納得している自分がいた。
素直にそう思えたのは、私自身の今の生活があるからだと思う。
障害ある方の支援をする毎日は忙しくあっという間で、悪くはない。勉強したいことが色々とある中でも、まず今やりたいことがわかってきている。そして、文筆業をしたいという夢もある。
生きるって素晴らしいなと思える日々が、この街の外に広がっていたのだ。
私自身の人生を誇りに感じられているから、この街そのものも、この街で生きる人々のことも、否定することなく丸ごと受け入れられるようになったのだ。
「その場所を去ってみて初めて気づく有り難さ」とは、新天地が期待はずれだったからふるさとが恋しい、だけではない。新天地での生活が充実しているからこそ、ふるさとにしかない良いところを認められるようになる。こんな意味合いがあってもいいんじゃないかと思う。
冒頭で話した「ちりとてちん」。主人公とそのパートナーは最後、街に初めてのある場所を作る。街を巻き込んでの大きな挑戦だった。
ふたりは新しいふるさとを作ったのだ。
私もいつか、誰かのふるさとになりたい。そして誰かと一緒に、新しいふるさとを作りたい。それまで、一歩ずつ進んでいこう。