溺レ

シン・堺は四角いリュックを背負って、あの人の元へ急いだ。彼は、ナビゲートされるがままに最短距離をママチャリ(正確には2週間前に家を出て行った父親が残したものだから、パパチャリ)で走り、示されている住所へ向かう。あと○分で着きます、統計的に計算された時間が表示され、シンはそれがほとんど正しいことを経験的に覚えていた。このナビゲート通りに走れば、多少間違ったとしてもナビはすぐに修正され、時刻を客に報告するので間違いがない。とはいえ、彼があの人の元へ届けるのはこれが初めてではない。だからナビに沿って走るのは一応見ているだけ、カラオケで十八番の歌を歌うのに、チラリと見るようなものだった。あと5メートルもない小さな信号を渡れば、あの人の家は目の前だ。アパートの2階、ドアの上の部分が、塀越しに見えている。しかし、信号は赤であった。向かっている途中、横断歩道が遠くに見えたとき、青信号は点滅していた。次の青信号になるのを、彼は漕ぎ続けていたペダルから足を下ろして待っていた。一度止まってしまうと、急に彼は自身の心臓が弾けるように高鳴り、苦しくなっているのに気づいた。心臓は胸だけでなく、周囲の内臓にも振動を響かせ、そのせいで先程食べたカツカレーを、彼は戻しそうになった。早く、自転車から降りて、あの人は届けてしまいたい。いや、本当は帰りたかった。ここまできて、全てを(もちろんマクドナルドの紙袋も)投げ出し、横断歩道を背に、踵を返し、一刻も早く自由になりたかった。あの人に会いたくもあり、会いたくなくもあった。悶々とする彼を他所に、信号は変わらなかった。

道路はさっきから一台も車が通らなかった。それでも交差点ではあるし、信号機が必要ではあるだろうが、あまりにも静かだった。交通整理の対象もないのに、律儀に守る信号も、しかしこの時だけはなかなか変わることがなかった。

シン・堺は信号を必ず待つ。何故ならそれが「ルール」であるからだ。交通ルール、ゲームのルール、校則や、公共的マナー。彼はその一つ一つを、知っている限り、破らないように行動する。それは別に誰も見ていないからと言って破った時の罪悪感が不快なわけでも、いざというときに責任を問われるかもしれないからというわけでもなければ、人の迷惑になるかもしれないから、というわけでもなかった。それは彼が、自分を動かすための第一歩なのであった。何かを決断するとき、行動をするとき、彼はまず思いつくルールの枠を思い描き、ちょうど絵を描き始めるとき、スケッチブックの端を描写したい風景にあてがう想像をするように、思考を始めた。そして思いつかなかった場合や、ルールがあまりにも役に立たない場合、自分でルールを課し、ゲームのように行った。今の彼の仕事でいえば、時間通りに、それよりも早く着くこと、ただし信号は見えた瞬間に青信号が点滅していれば彼はもう渡らない、というようなことだ。それは彼が生きていく上で人生を楽しむためのゲームであり、暇つぶしであった。ただし、何度か人にこの話をしたところ、ほとんど理解されることがなかったために、シンはなるべくそのルール作りについて、人に話すことはなくなかった。

シン・堺はあの人が目の前のアパートにいるというのに、横断歩道を渡ることができなかった。もう長いこと時間が経ったように思えたが、信号は変わらない。緊張しているが故に、時間の流れを早く感じているのかもしれない、と思い直し、少し落ち着いた。ナビゲートは相変わらずあと1分の表示から変わることはなかった。次第に信号を待つ彼の身体はほとんど落ち着き始めていた。あの人に出会ったのは1週間前、彼がこの宅配の仕事を始めたばかりの頃、最初に届けた人であった。彼(女)は「暮れ」と達筆に描かれた、白に黒字のTシャツを着、ジーンズを履いていた。有難う、という声を、マクドナルドの袋分、開かれたドアからかけられた。男にしては高いような、女にしては低いような声が耳朶に響くと、これが仕事の達成感かもしれない、と人生ね初めて人の役に立ったことを嬉しく思い、また次第に誇りに思えた。ドアは有難うと言い切る前に閉じられたが、静かになった通路で、有難う、という言葉はいつまでも余韻を残した。帰り道、見上げた空には雲一つなかったことを、彼はよく覚えている。

あの人のことを少し思い出し、そろそろ信号が変わったであろうと顔を上げたが、信号は一向に変わらなかった。そのうち、彼は一つの可能性に気づいた。このまま僕は信号を渡れずに、あの人に出会えない、それどころかここで朽ち、果てるのではないかと。パパチャリに跨ったまま、数本の白線の示す前で、最初に喉が渇くだろつ。徐々に、身体を保つ水分が減り、筋肉が腐り、排泄物を我慢できずに漏らす、乾き始めた目玉や口、鼻から蟲が集まり子を産みつける。全身が痒く、唾液飲み込む喉は張り付き、痛みを覚えるだろう。春の暖かな日差しも、動かない者には容赦なくジリジリと体表を焼き付ける。自分の体液が肛門や口や、乾燥し割れた皮膚から溢れ出る。蟲がそれらの液体に集い、食い物にし始める。人は誰も通らず、あの人も実はそこにいない。飲み物もなく、食べたカツカレーも、身体についた少しの脂肪もエネルギーに変えられる切ってしまうと、跨ってチャリを支えていることも難しくなっていく。父は今何をしているだろう。もしかして、あの人と今、目の前の部屋にいるのかもしれない。あの人が女であればそこで、僕を嘲笑いつつ、自分は無我夢中でセックスをしているのかもしれない。だとすれば僕は忘れられている。そうして信号機に殺されるのだ。死ぬ。殺される。罠だったのだ!

信号は変わらなかった。彼はもう、信号をこれ以上待つことができなくなった。呼吸は荒くなり、汗が身体中を湿らせた。心臓は身体から飛び出るように高鳴り、視界が白くなり、黒くなり、ぐらぐらと地面が揺れた。もう、僕は待つことができない、そう結論付いたとき、彼は背負っていたリュックを下ろし、マクドナルドの紙袋を取り出し、中から受け取ったものを取り出そうとしたが、手が震えていたために紙袋は引き裂かれ、ハンバーガーの包装紙を剥がす前に、丸ごと齧った。口に入った諸々の物は上手く噛むことも、飲み込むことも出来ずに、荒くなった呼吸によって、吸い込まれるように気管に入り込む。それによって、彼は呼吸につまり、吐き出そうともがいたが、泥の中、溶岩の中で溺れるように次から次へとハンバーガー等雪崩れ込んだ。苦しさに手を伸ばした。

彼が強く閉じた目を開けると、彼は最初にパパチャリのハンドルグリップを見ていた。そこに置かれた手が自分のではないかと予感すると、先ず、グリップを強く握りしめた。手は多少黒くなっていたように思えたが、肌は割れていないし、液体も溢れていない、ウジ虫もいない、力もいつも通りだった。痒いところも、痛むところも、喉の渇きも、湿ったところもない。思い出して顔を上げると、信号は青に変わっていた。彼はペダルを踏んだ。

マクドナルドの紙袋を四角いバックから取り出して渡すと、一言もないままドアは閉められた。口の中に、濃い甘さを感じた。

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