「弟が、今すぐ白い太身のパンツがないと、死んでしまうんです」
梅雨が明けて、雲ひとつない神保町の空を見あげていたら、虎柄のアロハシャツの男が声をかけてきた。頭はパナマハット、黒縁の丸メガネ、ジーンズ、革靴は光沢があって、足元だけがこの街と、男の格好に不釣り合いだった。私は確かに、通販で買った太い白のパンツ(買った時に外したタグにはキナリ、と書いてあったと思う)を履いていて、コットン100%の厚手生地は、通気性が悪く、夏に着るにはもう遅かったと改めて思っていた。それでも買ったのだから、一度くらいは履いてあげようと我慢して履いて、今日外に出てきた。
私は暑さのせいかクラクラしていたせいか、男が何を言っているのか訳が分からなかった。それで、男がどうしても必要なんです、近くでスカートでも買いますから、とかなんとか言っていたが、はあ、とかうんとか私は、曖昧に返事をしたら、ありがとうございます。命の恩人、と手を握られ、こっちです、という方に引っ張られて、歩き出していた。私はもう歩き疲れていて、こんな日に出かけるんじゃなかった、と既に後悔しているところだった。それでも、帰るには早い午後3時だった。せっかく出かける準備をして、暑い中このパンツを履いて、2時間もかけてやってきたのに、帰るのもなんだと思いながらも、帰りたくなり、それをこの数分繰り返しながら、ふらふら歩いていたのだった。そんなところに、声をかけてきた男がいたもんだから、とりあえずついていった。それに、この男の弟のためだ、話くらい聞いてみよう、とも思ったのだった。
「顔色悪いですね、カフェでコーヒー奢りますよ」
私は雑居ビルの一階のドトールの、元は喫煙席だったであろう囲いのあるスペースの奥の席にいた。テーブルの上に二つ、円形の水滴があった。この席に誰かが座って、アイスコーヒーを飲んでいたのだ。「お名前は?」と聞かれて、答えた。え?なんて?もう一度答えた。ジオです。
「ジオさん?神崎ジオ?芸名とかですか?芸能人?綺麗ですもんね」
本名です、と言っておいた。昔、ガンダムのシリーズに、同じ名前のロボットがいたらしいことを、昨日別れたばっかりのヤスオから、10年前に聞いていた。お互い中学生の時だ。
それからアロハパナマ男は凄腕の記者みたいに私に質問を投げかけた。会話のキャッチボール、というより、ノックみたいだった。パナマ男が打ちやすいボールを放って、私がバットを振る。男は、私にいい打球を打たせるために、工夫して、ボールを放り続けた。私は既にクタクタで、しかも、男のボールは一向に良くならなかった。
「それじゃあ休憩いきますか」と言ってアロハ男が席を立った。勝手なものだ。もっと休まるところがあるのか、と思い、人気のない方に向かっていて、ようやく、ナンパされていることに気づいた。どうやって断ろうか、と考えているうちにラブホテルばかりの一角にやってきて、そのビルの一つに入ってしまった。しかし、1軒目は満室で、2軒目も満室。三軒目は予想以上に料金が高かったのか、一室だけ空いているスイートルームのボタンを3度くらい押そうとして、諦めたのだった。はあ、と男は言った。ドンマイ。
「あの、この白パン欲しいんですよね?うち来ますか?」
男はキョトンとしていた。2人ともフリーズした。あなたが言ったんでしょう?と言うと、ああ、と忘れていたようだった。いいや、ごめんなさい。それじゃあ。と言って男は路地を折れて、どこかに消えた。弟は?大丈夫なの?と思った。生きているといい、と思った。
手に持ったビニール袋が重かった。古本屋で見つけたナショナル・ジオグラフィック。1997年2月号と1月号は、私が生まれた年月だ。世界一高い木について、深海の奇妙な生物について。内戦について。地衣類というカラフルで美しい植物について。写真が色褪せずに残っている。すごい、と思う。さっき飲んだアイスコーヒーの水分は、私の体を巡って、すぐに汗や尿となって排泄されるだろう。その一部は細胞の何かに使われるのかもしれないが、それでも、人間の身体は半年ほどで全て入れ替わる。分裂し、死んでいく細胞の中のDNAという設計図だけが残されて、身体が保たれる。設計図の端々は薄れていくが、それが身体全体に支障を来す障害じゃない限りは生きながらえる。でも、この雑誌は20年以上、同じ紙で、色褪せずに残っている。この白いパンツも、20年後は、古着となって誰かに着られていればいい、と思った。ビニール袋が、パンツに擦れ、ガサガサといった。
「おかえり」
家に帰って、リビングに入って、弟がソファで寝っ転がって、雑誌を読んでいた。弟は声が低い、と思った。アロハの男は声が甲高かった。
うん、と言って、冷蔵庫から麦茶を出して、飲み干し、またコップに注ぎ直して、ソファまで持っていく。弟の足を軽く蹴っ飛ばすと、足を引っ込めた。足。オリーブのTシャツに、太身の白いパンツを、履いていた。思わず私は自分の下半身を見る。ちゃんと私も白いパンツを履いていた。
「それ、そのパンツどうしたの?」
「ああ、古着屋で。20年前のなんだよこれ、いいっしょ」