成績なんてつけたくない
テストがあり、通知表がある。それが普通だと思っていた。
いざ教員になっても、通知表を作ることに時間や頭をとられていた。
しかし、評価と成績は違う。
本当は、成績つけたくない。
評価と成績
評価はたくさんある。
自分がどれぐらいできるようになったか。どれぐらい頑張ったと思うか。自分で自分を評価する。
目標に対して、どれぐらいできるようになったか。他人から評価される。
いずれにせよ、様々な要素が組み合わさって評価をする。
自分の気分がのらなかったから今日は評価が低い。
他の人に見られるのが恥ずかしいから、ちょっと高く評価を書いておこう。
成績はどうだろうか。
他人からの評価で決まる。
その中でも、非常に狭い基準で決められることが大いにあり得る。
至極客観的で、端的にその部分だけを数字で表しただけだということが分かっている教員につけられるのなら、納得がいくことが多い。
何しろ、成績の数字が何なのかということが分かっているから。
しかし、「ノートをすべて写せているか」「問題集をやり、答え合わせはできているか」などで、評価をされ成績をつけられても納得はいかないだろう。それに、客観的ではなく、明らかにその教員の主観で。
しかも、そのことができていなければ、ダメな奴だというレッテルを張る教員までいる。
成績って何なんだろう。
「個人の頑張りを数字で表した客観的なもの」
と思ってはいたが、違う気がする。
学校に行っている時にしか有効でなくて、学校の中だけでしか効力を発揮しない数字。もちろん、何を学んだかという指標にはなるが、それを生かすかどうかで人生は変わってくるような気がする。
学校は成績をつけるために、評価をすることをやめて、様々な評価をもとにその個人が成長できる要素にしないといけない。
本来の評価の在り方はそこにある。
しかし、いつの間にか成績をつけるためのもので、その成績で人生すべてが決まってしまうようなことを言い出す教員もいる。
教育を変えたい
でも、かわらない。かわらないでおきたい人が多すぎる。
変える部分はたくさんある。変えたいと考えている人もたくさんいる。
そんな、もどかしさのなかでのストレス。
今の子どもたちが不幸になるからと、一気に変えたいと考えて、行き詰まる下手さ。
そんなことも、考えながらなかなか前向きになれない日々を過ごしている。