「せーの」で同じことしましょう!への違和感
みんな一緒に「せーの」でやりましょう。
このことに、ここ最近違和感を覚えてきている。
学校という場で働いていたが、これが多い。
みんなが、同じ考えを持って、同じ行動をすることが「よし」とされ、いうことをよく聞いて皆を引っ張っていってくれる生徒を「よし」とする。
それって、個性をうばっていませんか?
学校教育目標というものを各学校が掲げている。要するに、こんな生徒を育てていきましょうということだ。
その中には、「個性豊かに」とか、「自ら考えることができる」とか、「社会で生きる力を」とかを掲げている学校が多いが、それを真剣に考えると、本当にその教育目標に向かっている教育ができているのかが違和感の玄以なのかもしれない。
「みんなと違って、自分はこれに興味があるからこれをしたい。」が「個性豊かに」であって、「みんなと違うことをすることを我慢して、皆に合わせよう」は「個性豊かに」ではない。
「今自分に必要な学習方法はこれだから、宿題よりもこっちの学習をしたほうが、自分のためになる」が「自ら考えることができる」であって、「わかっていても宿題だからやりなさい」は「自ら考えることができる」ではない。
というように考えるようになった。
これは、私の大好きな苫野一徳先生がいうように、
「みんなで同じことを、同じペースで同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」
ことから
「学びの個別化」
へと向かう考えだと思っている。
そして、全員が同じことをする集団よりも、さまざまな個性が集まった集団のほうが大きな力を発揮すると考えている。
私は、大学のサークル活動で、「この学年はバラバラすぎて大変だ」といわれている学年にいた。
自分たちが中心になるまでは、「みんなで同じことを同じペースでみんなで守る」ことをよしとする考えを持っていたが、運営をしていく中で、「バラバラのほうがそれぞれが活躍すればそれぞれの得意分野をあつめて、もっとすごいことができる」
という考えになった。
学校においても、キャリア教育などを進めていく中で、かつての高度経済成長期に必要とされていた「同じことを同じペースでよりスピーディーに」という大人を育成するよりも、これから必要とされている「自ら学ぶことができる」大人を育成することにシフトしていかないといけないと考えている。
そのためにも、
「せーので同じことをしましょう!」
から、
「今みんなのために必要だと思うことを、自分で考えてやってみよう」のほうに変えていきたいと思っている。