『正義と微笑』 太宰治
ゼミで紹介された本。
「実世界で役に立たないような学問を勉強して果たして意味があるのか?」というよくある疑問。僕も長らく悩んでいた結果、大学の成績はボロボロだ…笑。
少なくとも今まで、『正義と微笑』を紹介してくれたゼミの教授以外に、この疑問を払拭してくれる先生はいなかった。本にはこんな一節がある。
「勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強しておかなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。」
主人公は本を読み漁る日々を送っている。そんな中、演劇の道を目指すことになり、試験を受ける。彼は受験生でありながら、面接官を俯瞰したような見方をし、質問内容の本質を疑ったりする。演劇の試験でも咄嗟の題目に対しても、自前の知識でうまく切り抜ける。
こういう機転を利かせてくれることも教養の賜物だろう。またネガティブなイメージがある忘却を良しとしているところも面白い。
これは単なる一例であるが、教育現場において、「何のために勉強するのか?」を勉強させる以前に伝えることが何より重要だと思う。僕は遅くとも、ゼミの教授にそれを教わる機会があって恵まれていたかも知れない。
散々な言われようの日本の義務教育もここを意識することで大きく好転するだろうか…?
さあ、カルティベートされた人間になろう!