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発話言語と文章言語を分けたほうが良いという気づき

『ショパンゾンビ・コンテスタント』では「発話言語と傾聴言語ははたして同じか?」という形で、言語に種類があるという可能性が提示されるが、それぞれの性質やその違いについて具体的なことは語られない。

リアルタイムなコミュニケーションの場において、いま自分が言い淀んでいる間に聞き手側の時間を無駄に奪っているのではと考えてしまい言葉が出なくなるので、話すのが苦手。

というのが以前出した結論だが、「言い淀む」ことの理由が「文章言語で発話しようとしているから」だと気づいた。

文章やnoteを書くときに話すように勢いに任せてババーッと書く人もいるが、私は常にロジックと全体の整合性を意識して書くタイプだ。そうしないと気持ちが悪いので、ババーッと書くことができない。(MBTI診断では常にNT型だ)

会話においてもそれを大事にしすぎていたきらいがある。

会話は「自分はこう思った」のやりとりだ。頭の中にある思考を言葉という道具を介して相手に伝える。

常に文章言語で発話している私は「自分はこう思った」を伝えるにあたり常に「その根拠」を意識していて、「そう思った事実」を発話するより先に頭の中で「そう思った事実とそれに至った理由」を常に組み立てている。

この組み立てている時間が「言い淀む」時間だ。

ここ数日、コミュニケーションの言語についてのnoteを書いているが、つい昨日、会社で先輩や後輩と話していたときに「発話言語の回路が開ける瞬間」があった。

つまり、今までは常に頭の中で文章でロジックを組み立ててから発話していたが、そのときは「ロジックを組み立てることなしに」発話できていた。

イメージとしては、これまでは頭の中に思考があって、それが喉まで降りてきて空気の振動となって口から出てくる、だったのが、そのときは頭の中の思考をそれほど介さずに言葉を発していた、という感覚だ。

ちなみにそのときは別に「おいしいね」「たのしいね」とかいう話をしていたわけではなくて、先輩とはプログラミングの効率化ツールとしてChatGPTとCopilotのどちらが良いかという話をしていて、後輩とは面談で「マルチタスクをどう処理すべきか」「報連相の遅い人にどう対処すべきか」などの相談を受けて答えていたときだったので、それなりの思考の根拠が求められる場面だった。

頭の中の思考を介さずに発話する、ということの快感があった。回路が開けたときの喜びがあった。

それはこうして連日コミュニケーションについてのnoteを書く中で、自分のコミュニケーションの仕方について整理できたからかもしれない。note書いてよかった。

それからPodcastの倍速視聴をやめたこともあるかも。私はデフォルトで1.6倍で視聴しているので、総じてパーソナリティの頭の回転が死ぬほど早い。奇奇怪怪でTaiTanがリスナーマメマメマメ……って言ってるとき彼は泡吹いて倒れてるし、玉置さんのツッコミのスピードはシューティングスターだし、超相対性理論の登場人物は全員別の惑星の住人かと思うほど思考とアウトプットの速度がはやすぎる。

もしかしてこれが人間のデフォルトで、今の自分より発話を早くしなければと考えている節もあるのでは……?という思いから倍速視聴をやめたところ、パーソナリティが(特に超相対性理論の場合)ものすごく丁寧でゆったり落ち着いた話し方をしていることに気づいて、わ〜この速度でいいんだ!って思えた。(奇奇怪怪が丁寧で落ち着いていないとは言っていない)

『ショパンゾンビ・コンテスタント』を読んだから、話すこと/聞くことの手段に傾聴言語を選んだけど、noteを書いていて発話言語と文章言語を分けて、発話言語で発話すればいいのかもと気づいたという話でした。

発話言語で発話することの回路を開いていこう。

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