発話言語と傾聴言語ははたして同じか?
ある概念を知った瞬間、見えている世界ががらりと変わることがある。
思考の様式には具体と抽象があるとか、音楽におけるリズムは立体であるとか、名前を知ることで物を分別できるようになるとか、マルセルデュシャンの『泉』という作品は芸術から美しさを解放したとか、人間の消費行動は広告によって決定されているとか。
タイトルで書いた問いに出会った瞬間、「話すこと/聞くこと」、そして「言語全体」における私の概念が根幹から揺らいだ。
町屋良平さんの『ショパンゾンビ・コンテスタント』を読んだときのことだ。
町屋さんは言語化がものすごく上手い。取るに足らない、だけどそれに名前をつけることで事象や感情がきらめき出すような、半径2mくらいの世界を切り取る解像度がとにかく繊細でうっとりする。(永井荷風とか島崎藤村とか曽我部恵一と同じ部類だ。これ伝わる人、ぜひ友達になろう)
『ショパンゾンビ・コンテスタント』には、ピアノを弾く主人公やその友達が登場する。この本ではとりわけ、ピアノを弾いているときの「運動神経の言語化」が上手すぎる。
詳しいことは小説を読んでもらうとして、作中では「演奏する運動神経が優れているということは、演奏にそぐう言語領域が発達しているということだ」と語られ、そのことを示すようにして、「主人公がピアノをどう弾いているのか」が描写される。
そこで「文章言語」とか「音楽言語」それのみが発達している人もいる、と主人公は語るのだが、私はこれを読んだときに「そうか、書く、読む、話す、聞くでそれぞれ言語が違うから、人によって得意不得意も違って当たり前なのか……」と妙に納得してしまった。
そしてこの本を読んだのがちょうどコロナが出始めた時期で、大学生で、不要不急の外出が推奨されていなくて、人と話す機会が減って、その結果「話し言葉を使うこと」に苦手意識を感じ始めたときのことだったから、この言葉は私にとって「無理に話そうとしなくても良い理由」になった。発話言語が上手くなくても、別の言語を習得していけばいいのでは?と思うようになった。
以来、私は自分の思考のアウトプットに「文章言語」を、人とコミュニケーションを取る手段に「傾聴言語」を選んでいる。
前回と前々回のnoteで書いたことの根底には、こういった思考があるという話でした。
でも、このnoteをきっかけに「発話言語」を鍛えてみてもいいのかもしれない。2025年の目標はこれだ!
『ショパンゾンビ・コンテスタント』については別文脈で書きたいことがあるのでそのうち。
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まだ書きたいかもしれないけど「よしなしごと」はサクッといきたいのでこのへんで。