映画『天使たち』に二十歳で出会えた幸せ
『天使たち』という映画を銀座のTCC試写室で見た。
質素な看板から地下に入ってちょっと不安になるくらい奥に進んだところにある小さな映画館だった。
少し早く着きすぎてしまって、近くのカフェで時間を潰そうとその道を戻ってきたところで、ナイマさんに会った。
大きなかばんを抱えて、カラフルでいかにも高円寺な服を着ていて、そしてにっこにこで「久しぶりー!!」と私にハグしてくれた。
彼女こそが、今から上映される映画の監督である。
映画を観てから一週間かけて自分なりに咀嚼して、Filmarksの『天使たち』のページのための感想を書いていた。
でも私はこの映画にただのひとりの観客以上に関わらせてもらっていて。
書いているうちに感想とは呼べないものになってしまいそうで。
だからこれは映画『天使たち』と、それに関わる素敵な人たちに二十歳で出会えて幸せだっていう話。
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この映画は、木村ナイマという人にしか作れない映画だと思った。
いやどの映画だってその人にしか作れないものなのだけれど、この映画に出てくる「天使」たちの痛みは、木村ナイマさんという監督だからこそ、ここまでリアルに、鮮やかに、痛々しく表現されているのだと思う。
主人公は新宿歌舞伎町のガールズバーで働く女の子。
歌舞伎町では近年トー横キッズや立ちんぼ女子が問題視されている。
確かに令和の東京の繁華街で女という性と若さを消費しているとされる女の子が題材の話ではあるけれど、ギラギラした遠い世界の話だとは一切感じさせない。
流行に乗って、今社会問題として熱いから取り上げよう、という理由でこの題材になっているわけではないことは見れば誰でも分かるはず。
日々をただひとつひとつ生きようとする女の子のお話。
この映画の見どころの一つが、おじさんの気持ち悪さの解像度が妙に高いところだと思う。
まるで自分がガールズバーに体験入店したのかと思うほど、気持ち悪い。
一応言っておくと、この世のおじさんみんなが気持ち悪いわけじゃないし、この映画を作るにあたっても沢山の素敵なおじさんたちが関わってくれているので、そこは誤解しないでほしい。
ただ、このリアルさは誰にでも出せるものではないと思うのだ。
監督の脚本、カメラワーク、カット割り、役者の演技。
全てが上手く重なったことで、最高に気持ち悪くて最高に面白い場面になっている。
そしてもう一つ、緩急が凄い。
ガールズバーで短いスカートを履いて接客していた主人公が、次のシーンではどこか懐かしさを感じる家でださいジャージを着て弟の子守をしている。
夜の街の喧騒の中に放り込まれたと思ったら、朝を迎えたその街を静かに見下ろしている。
でもどのシーンにも、もうどうしようもなく生きているのだという各々の絶望が、重たく霧のように広がっている。
大学のとある授業のシーンが冒頭にあることで、それがより一層濃くなっているのではないかとも感じる。この授業、本当にあるのならぜひ取って毎週聞きたいくらい。
確かに心がぎゅっと潰されてしまうものなのだけれど、一方でちょっと安心するというか落ち着くというか、不思議な感覚。
映画やドラマを見ていると、たまに登場人物があまりに影が無くて、眩しくて、どうしようもなくそれを見ている自分がいたたまれなくて辛くなることがある。
でもこの映画に出てくる人たちは見ている人を絶対に置いていかない。
たまに影がありすぎて、苦しくなることはあるけれど。
だからどんな人でも安心して観てほしい。
きっとこれは、この登場人物を生み出した監督の優しさなんだと思う。
出てくる登場人物一人ひとりについて、チャーミングというか、抱きしめたくなる不器用さがあって語りたいくらい。
なるも、マリアも、みあも、あそこで働いていた沢山の女の子皆が生きていてほしい。
「幸せに」生きていてくれたらそれが一番なのだけれど、まずは生きていてほしい。
勿論、彼女たちの周りにいた彼らも、みんな。
終盤、天使たちの祈りのような歌が作品全体を包み込んだ。
「ああ、終わったんだな」と見ている私たちは悟りを開く。
強いて言うなら、ゲームでラスボスを倒した瞬間に画面がスローモーションになって、ボタンを押しても自分では操作ができなくて、ただただ消えていく瞬間を見つめている感覚。伝わるかな。
でも現実は終わっていなくて、きっと彼女たちもあの頭のまま、この世を生きる。生きるしかない。お腹が空いて、買ってきたものをふたりで食べて、また1日が始まる。
細かいシーンはキリがないからと思っていたけれどどうしても一つだけ。
彼女たちの歌が流れる中で、朝おそらく会社に出勤する三村のシーンがあった。
セリフもないし、一瞬だったけれど、すごく印象的だった。
この映画はただのフィクションじゃなくて、現実と地続きなんだっていうメッセージのような気がした。
書き漏れていることは間違いなくたくさんある。
とりあえず、とにかく、ひとりでも多くの人に『天使たち』という映画を観てほしい。
見終わってすぐに面白かったね!と笑顔で他人と感想を述べあえる映画では多分ない。
とても疲れるので、少しだけメンタルに余裕があるときに観た方がいいかもしれない。
でも本当にどうしようもなく死にたくなった時に観てもいい気もする。
無理な願いなのは百も承知で。
いなくならなくても、死ななくても、天使が生きていくのに、
少しでも辛くない世界になることを願わずにはいられない映画です。
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ここまでが、一応、感想。
結構脱線しかけているけど、映画や本の感想ってその人がそれに触れて何を思い出したのか、が面白いと思ってる。そしてその思い出した話を聞くことで、思いがけない方向からその人を知れるのはさらに面白い。
監督とプロデューサーは二人とも大学の学科の先輩で、さらには同じドキュメンタリー映像制作のゼミの先輩だった。
1年生の冬、ゼミの教授から映画を撮ろうとしている先輩がいると聞いて、繋いでもらった。
初めて会ったのは山小屋をモチーフにした飲み屋での決起集会(?)。
この時点で結構癖強めである。
制作部、技術部、役者、色々集まってこれから撮ろうとしている映画についての話が二割、あと八割は全く関係ない話だった。
みんなとにかく楽しそうだった。
20年弱ほぼ田舎で生きてきた上京一年目の人間にはかなり衝撃的で。
メディアの勉強をするっていっても座学の必修で堅い話ばかり、周りも淡々と大学生として最低限の授業を受ければいいっていう人ばかりだったから。
ジャーナリズムとかどうでもいいんだ、感動する映像作品を作りたいんだとイライラしていた私には、映画をいちから作ろうとしている先輩が輝いて見えた。
突然入ってきた何もできない後輩に、先輩はみんな優しかった。
助監督補佐というポジションをもらった。
助監督の先輩も素敵な人だった。
腰にバミリのテープをぶら下げている姿も、きっと何度も傷ついて強くなったんだなと一つひとつの言動からにじみ出てくる感じも、かっこよかった。
衣装と小道具を買いに集まって、じゃあまずはと美味しい街中華に連れて行ってもらった。
結局その後新宿のアルタを、監督と二人で閉館間近にダッシュした。
営業しているガールズバーを昼間に借りているため暗幕を窓に全部貼り付けるところから撮影は始まった。
エキストラを迎えに一緒に行った制作部の先輩のコートが真っピンクで、でもそれがめちゃくちゃその人に似合っていて驚いた。
あと、遠くからでも見つけやすかった。
天使のコスプレを着て、助監督と二人で飲み潰れた女の子のエキストラをやった。
ヘアメイクの方に三つ編みをしてもらえて嬉しかった。
エキストラ用に撮影場所の近くのコンビニのおにぎりとパンを買い占めた。
雪が降った日に画を繋げるためにみんなで雪かきをした。
目の前のラーメン屋の店員さんがゆで汁をかけて全部溶かしてくれた。
汚い高円寺の路地裏が、その瞬間だけ湯気ですごく美しく幻想的に見えた。
私の憧れていた、映画の作られる現場というものを初めて見た。
同時に、1本映画を撮ることってこんなに大変なんだと絶望した。
本当に少ししか関わっていない私が絶望したなんて言えることではないのだけれど、誇張でもなんでもなく命を懸けている人が沢山いた。
私は一年生で大学の授業が多かったことだったり、心も体も一年間東京ですり減らしてしまっていて不安定だったりしたこともあって本当に自分から繋いでもらったことが申し訳なくなるくらいしか撮影には参加できなかった。
メンタルの弱っている時に、本気で頑張っている人を見ると辛い。
たぶん自分が頑張れていないから。
でもその時の19歳の私は今よりさらに未熟で、なんでそんなに辛いのか分からなかった。分からないから余計に辛かった。
それでもあの寒い1月、2月に感じたことは間違いなく私の今を作っている。
撮影が終わって、公開されるまでの間に春が来て、夏が来た。
私は2年生になって、20歳になって、人生で一番の絶望を味わった。
先輩方は元ゼミの先輩になってしまった。
この数か月の間に、色々なものを諦めてしまった。
あんなにやりたかった映像に関わる仕事は見えないふりをした。
実家に1か月帰って犬を愛で、東京はいったん忘れた。
諦めないと死んでしまうと思ったから。
これ以上絶望したくなかったから。
「今度の上映会来れる日ある?招待できるよ!」
私の中で世界の見え方は大きく変わってしまったのに、
プロデューサーの先輩は私に全く変わらず優しくLINEをくれた。
この人はすごく大人で、沢山の人の拠り所になっていて、
でもたまに子供みたいに無邪気に笑う。
絶対に私はこの人にはなれないけど、
なれないからこそ憧れるのだと思う。
多少の気まずさと、怖さと、楽しみと。
色々抱えてTCC試写室に辿り着き、
そして冒頭のナイマさんハグに繋がるわけである。
映画が終わって、ナイマさんが挨拶をしている時、
一緒に来ていた私の母が泣いていた。
まさか母にそんなに刺さるとは思っていなかった。
母と歌舞伎町が全く繋がらなくて不思議だったのだけれど、
ふと気が付いた。
この映画で描かれているなるやマリアは
多分この世界を生きる女の子みんなの中にいるものなんだ、と。
最強だと思っていた母もかつては私と同じ脆くて弱い女の子だったのだ、と。
「監督さんがきっと素敵な人なんだね」
帰り道、内容についてとか、泣いていた理由とか、ほとんど話さなかった母がそれだけ言った。
「そうなんだよ」と、ナイマさんについて語れる自分がちょっと誇らしかった。
初めてエンドロールに自分の名前が載った。嬉しかった。
やっぱり映像っていいな、と思った。
久しぶりだった。
映画やドラマは細々と見ていたけれど、自分も作りたいと思ったことが久しぶりで。それもまた嬉しかった。
そして。
監督とプロデューサーは一緒に住んでいた高円寺のアパートを離れるらしい。
上映会から1週間後、近くのカレー屋さんの前で、部屋に置いておいた大量の本を並べてセルフ古本市を開いていた。
川上未映子の「すべて真夜中の恋人たち」と、
「脚本家 坂本裕二」を300円で買った。
ここ最近で一番いい買い物をしたと思う。
面白そうな本を買えたこともだけれど、
あの部屋がなくなってしまうことが寂しかったから本を引き継げたことが嬉しい。
カレー屋の前で小さく座ってお喋りする二人はとても可愛らしくて、
こんなに信頼し合える人と出会える大学ってすごいと思った。
自惚れかもしれないけれど、
多分私は普通より生きるのが下手で、傷ついた数も深さもかなりあって。
全く誇れることではないし、生きるにあたっては本当に不便で。
でもそれを生かせるのはこういう場所なんだと、ナイマさんを見て思う。
ここまで傷ついてきた過去は変えられないけれど、
変えられないからこそ、その傷を愛おしく思えるようになりたい。
こんなに勇ましく書いてみたはいいけれど、
将来は全く決まっていないので、まだまだ悩み続けるだけ。
それでも私は『天使たち』という映画から
もうちょっと生きてみようというパワーをもらった。
20歳でこの映画とこの人たちに出会えたのは、
あの時ドキュメンタリーに一瞬でも惹かれたからであって、それは絶対に変わらない事実で。
そんな私は色々あるけど幸せ者だ。
ここまでこの文章を読んでくれて、
ちょっとでもこの映画が気になった人は観てほしい。
とりあえず、あの時どうでもいいと思っていたジャーナリズムが意外と面白いことに気が付いたのできちんと授業に出て、きちんと勉強してみることにした。
今の私の願いは二つ。
いつか私も自分の作ったものを誰かに観てもらえるようになりたい。
そして、
『天使たち』がひとりでも多くの人に届きますように。