デヴィッド・ボウイとその時代について
2016年1月10日、ある伝説的アーティストが永眠した。その人物が亡くなった際にドイツ政府は「さようなら。あなたは私たちの英雄です。壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」と公式にコメントを発表した。このコメントは1987年6月6日に西ベルリンの壁の前の広場で行われたコンサートを指している。
そう、その人物とはデヴィッド・ボウイである。彼は客席へ「壁の反対にいる全ての友人に送ります」と東側の約5000人のファンへメッセージを送った。その時彼が歌った歌はベルリンの壁で待ち合わせするカップルを見て作った『ヒーローズ』だ。
そもそもなぜベルリンの壁が立ち上がったのだろうか。ドイツは第二次大戦で日本と同じく敗戦し国土を四分割された。東側をソ連、西側を米、英、仏。その時、冷戦が勃発しており、資本主義対社会主義の対立がうまれていてドイツもまた東ドイツは社会主義、西ドイツは資本主義と二分されてしまった。さらに東ドイツにあったベルリンも同じように四分割されたのだった。そのような中で、資本主義である西ドイツ側はどんどん経済成長していった。西ドイツの経済好調ぶりをみて東ドイツ側の庶民たちがどんどん西へ移動しようとしたところ、それに危機感を覚えた東ドイツ政府は1948年にベルリン封鎖を行った。
鉄道や道路を封鎖し物資の枯渇を狙ったのだ。
しかし、アメリカは空から物資を運んでしまったので東ドイツの作戦は失敗してしまう。
その後もジリジリと睨み合いが続き、ついに1961年ベルリンの壁が建設されてしまう。ベルリンの壁建設後の1968年プラハの春がチェコスロバキアで起こり、ソ連に対して自由を主張したのだが、それに対してソ連は軍事侵攻をして鎮圧した。
これは現在のウクライナに似ている。
その後、1985年にソ連の書記長にゴルバチョフが就任。ゴルバチョフが書記長になってからだんだんと東ヨーロッパまでの面倒まで見るのは難しい、とソ連の考え方が変わっていく。ソ連側がもう自由にしていいだろうと考えるようになり、アメリカではその自由な道を進めという考え方を『シナトラドクトリー』、フランク・シナトラの『マイ・ウェイ』という曲から由来しそう呼ばれている。その後、1989年にベルリンの壁は崩壊し冷戦の終結となった。冷戦は他にも朝鮮戦争・キューバ危機などもあるが今回はドイツに絞る。そんなベルリンの壁の崩壊に携わった人物の1人がデヴィッド・ボウイだった。
デヴィッド・ボウイはどんな人物だったのだろうか。彼のキャラクターは一言には表せないほど新しいことに挑戦し続ける人だった。そんな彼の1番アイコニックなイメージはグラム・ロックをやっていた頃だろう。グラム・ロックとはロックの一種で1970年代にイギリスで大流行した音楽ジャンルである。
"グラム"とは魅力的などを意味するグラマラスをもじったものだそうで化粧や衣装など表象的なところだけでなく美意識の面でも耽美的で退廃的な雰囲気でアートの要素が非常に強い。
この頃のデヴィッド・ボウイを見てみるとわかるが、現在のヴィジュアル系も元を辿るとボウイに辿り着くだろう。彼はこの時期に大成功を収めスーパースターとなった。
その後、彼は変革を遂げソウルという時期に突入する。彼はブラックミュージックに魅了され、白人がどれだけ黒人のブラックネスに近づけるのかという挑戦をし新たに音楽を発表していった。 その後、また彼はベルリンへ移動し新たな音楽へ挑戦する時期が訪れる。所謂ベルリン三部作と呼ばれるアルバムを制作したのだ。彼はドイツでクラウトロックという電子系音楽のムーブメントに触れ電子音楽へ接近していった。現在のEDMやテクノの元祖と云われるものだ。ボウイはブライアン・イーノと共にとても画期的な三部作を発表したのだった。私は彼のことを大島渚監督の『戦場メリークリスマス』で知っていた。音楽についてあまり詳しくないのだが、この映画でボウイを知り好きになった。彼は俳優としての才能もあり、音楽でもたくさんキャラクターを演じていて大変多才だったのでこのような新たな挑戦をし続けられたのだと思う。彼が音楽にちからを与え、たくさんの人々を魅了し、歴史的に重要なライブを行ったことはいつまでも後世に語り継がれることだろう。私が1番好きな彼のアルバムは『ジニー・スターダスト』だ。
グラム・ロック時の代表作で彼らしく、さらに美しく、詩も音も全てが知的情緒的賞賛を喚起させる。
このデヴィッド・ボウイとベルリンの壁崩壊時期を流れに添い簡単にまとめてみる。
ニハ・ハーゲン 『カラーフィルムを忘れたのね』は灰色の世界の嘆きである。メルケルはこの曲をずっと胸に抱き辛い時期を乗り越えていた。メルケルは大学時代、物理学で自然の法則はどこへいけども変わらないことを知り政治へ飛び込んだ。
ニナ・ハーゲンは東ドイツから西ドイツへ逃げ込み、置いてきた家族や友人たちのことを常に気にしていた。1976年、チェコスロバキアでPP Uメンバー逮捕。1980年ジョン・レノンが一般市民に射殺された。これは世界現象になり、レノンウォールが起こった。ベルリンの壁崩壊は1986年のチェルノブイリ原発事故のダメージによるソ連の縮小も影響.している。 1989年ベルリンの壁崩壊後、旅行法作成。
この時期のことを調べると、本当に人間の根源にあるものを見ているような気がする。ベネディクト・アンダーソンのいう想像の共同体同士が争い合い、戦争をして引き裂かれるのと同時に、お互いを思い合い、慈しみ愛を語ることもある。
どちらも何かを思う気持ちは同じだが、私はやはり愛のある音楽が聴きたいし、そういうものがどうしようもない困難を乗り越えるための本当の力を持っていると思う。表現の自由をこれまでたくさんの人が考えて歴史を変え、今も議論をされていると思うが、その自由とは平和と愛のために開かれたものであることは確かだと思う。今後の制作をする上でも、多様な表現の可能性の中で困難を乗り越えるための力を持って活動をしていきたい、これは音楽に限らずあらゆる表現でも同じはずだ。
ここで学んだことは、他のファッションや言葉や表現に必ず繋がっていると思うので、今後も勉強を続けていきたいと思う。