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第二次世界大戦における太平洋戦争時の戦争画と展示


はじめに

 ロシアがウクライナ侵攻をはじめた日、私は大学受験をしていた。そこには、相対性理論の曲である『バーモント・キス』のような雰囲気が漂っていた。

 今回私は、戦争と芸術という大きなテーマからひとつ簡単なレポートを書いた。拙文ではありますが、お付き合いいただけると幸いです。

 私は子供の頃から戦争に対して興味関心が強い方だった。うちの小学校は低学年から平和学習の授業が多く、爆心地へ行ったり、当時は多くの戦争体験者のお話を聞く機会があったからかもしれない。学校にあった「はだしのゲン」を食い入るように読んでいた記憶がある。
 その悲惨な体験を聞くたびに、なぜ人間がこんなことをするのか大きな疑問だった。当時は戦争について今ほど理解はなかったが、日本という国が存在し、社会のネットワークがあり、その道路を私は歩いているのだということはなんとなく知っていた。

 日本は第二次世界大戦で枢軸国となり、戦前と戦後ではその社会の形相が全く変わってしまった。
当時の様子を伝える媒体の中には芸術作品も挙げられるだろう。
(余談だが、原一男監督作品「ゆきゆきて神軍」も太平洋戦争当時の、悲惨な現状を直接経験者が訴えかけてくる素晴らしいドキュメンタリーだ。このような声を聞くと尚更、戦争という問題は深刻に迫ってくる。私の好きな作品の一つなのでぜひまだの人は見てみてほしい。)
 今回は、第二次世界大戦における太平洋戦争時の絵画と展示について見ていきたいと思う。


戦争画の問題

芸術と戦争を考える上で一番に出てくるトピックは戦争画だろうと思う。
 戦争画とはそのまま受け取れば戦争を描いた絵のことを指す。もう少し専門的にいうと戦争記録画(大東亜戦争作戦記録画)と呼ぶ。日本における戦争画は、1937年に日本と中国が交戦状態となり国家が国民の心身も物資も総動員する体制が整った頃から盛んに描かれるようになった。

 しかし、絵とはいえ、日本の戦争画の場合、他の絵画作品とは違う側面がある。日本では第二次世界大戦中数えきれないほどの戦争画が描かれた。にも関わらず、教科書にもでてこない、そのことを知っている人、実際に目にしたことがある人はあまり多くない。このnoteを読んでいる人の中で一体何名の方が、何枚の戦争画を見たことがあるのだろうか。この理由を見ていこう。

 これらの戦争画制作の目的は、大東亜戦争という日本が世界のリーダーとなることを目指して起こした戦争作戦を正当化し、美化して国民の気持ちを鼓舞し、後世に長くその営為を伝える為だった。つまり、プロパガンダのための美術だった。

 軍部は、戦争に協力しない画家は非国民とみなし、画材の提供や発表の機会を奪っていった。逆に言うと、戦争の為に宣伝に協力した画家には、十分な画材と多くの観衆が集まる大規模展覧会の機会を与え、成果を挙げた美術家には賞を授け大々的に表彰した。そして、その戦争画は西洋絵画を超越し、レンブラントやドラクロワを超える、油絵における近代の超克と言う歴乗り越える史的な使命感が、国家を代表する画壇の盟主達の中で湧き上がり、戦争画を進んで描く強い動機づけにもなった。

 ところが、敗戦により全ての価値観が180度変わってしまった。
戦争画を描いた画家達は戦争責任を問われ、一斉に悪者扱いされてしまった。特に名を挙げられたのは藤田嗣治だ。アメリカは日本の戦争画をまとめて撤収し、長いこと戦争画の行方はわからなくなっていたが、1970年にアメリカから一括返還され、今はほとんどの大作が東京国立近代美術館に収蔵されている。ここで問題に挙げられるのが所有権の問題だ。戦争画は日本ではなく今でもアメリカの所有権となっており、言い方を変えれば、何かあればアメリカに返さないといけない状況にある。このような歴史を背負っているのが戦争画の問題である。
 だから、現在はなかなかお目にかかれないのである。


 近年の戦争画を扱った具体的な現代美術作品は、藤井光による​​​​​​《日本の戦争画》である。「Tokyo Contemporary Art Award 2020-2022  受賞記念展」で発表された。




「Road to Victory」21 May to 4 October 1942

 映像の技法にモンタージュ(Montage)がある。
モンタージュは、異なる要素や断片を組み合わせて新しい意味や物語、表現を生み出す芸術的な手法や技法を指すことばだ。絵画や写真においても、位置関係やギャラリーの空間によって一枚の絵がモンタージュされることは可能だ。(クレショフ効果といったほうがいいのだろうか。)
 このモンタージュ的な手法が使われた興味深い展覧会がある。

 第二次世界大戦中のアメリカMoMAで「Road to Victory」という写真の展覧会が行われた。会場の設計と展示を担当したのは、ヘルベルト・バイヤーである。その展覧会では作品の位置関係をうまく構成し、展覧会が一つの大きなプロパガンダとして扱われた。
 具体的には、写真を山折谷折りで展示し、向かい合う写真に関係性を持たせた展示方法だ。右には爆発した街の写真、左にはそれを見て笑顔で喜ぶ昭和天皇といった具合。日本の悪いところを写真で見せて、戦争で戦う正当性を肯定している。
 鑑賞者がこの展覧会を出た頃には、日本を酷い国だと自覚し戦意を高めることができたのだろう。 
​​当時の展評が、一様にこの展覧会を賞賛していることからすれば、この展覧会は大成功を収めたと言ってもよいだろう。


Road to Victory

May 21–Oct 4, 1942

MoMA

参考

【Road to Victory  May 21–Oct 4, 1942 MoMA】
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/3038 

【展示の力 : 「勝利への道」展とヘルベルト・バイヤーの展示デザインを巡って 小林 美香】https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/53/4/53_KJ00003904454/_article/-char/ja/

 このように、展覧会が人々を高揚させ欲望を掻き立ててきた歴史は、第二次世界大戦以前からある。特に顕著なのは万博だろう。
1851年にロンドン開催された最初の万博をはじめ、万博は文化・技術の交流、経済発展の促進、国際的な知名度の向上だけでなく、万博の展示様式は人々の欲望や願望が反映されている場としても満たされていた。

万博について小原真史さんの『帝国の祭典-博覧会と〈人間の展示〉』という本がとても詳しく、面白いのでご紹介させていただく。なんと、載っている図版はほぼ著者の私物というのだから驚きである。



まとめ

 戦争画も展覧会「Road to Victory」も技術的に見れば目を見張るものがある。表現の歴史を踏襲し、魅力があるからこそ人々は心を動かされたのだと思う。
しかし、これらは間違った目的を持った表現である。私たちは(筆者は美大生であるが)表現をする人間として、このことに慎重にならなくてはならない。
これまでの芸術は、人間を主体として発展してきたが、その過程で権威によって利用され誤った歴史を辿ったことも事実だ。

 「戦争は、人間を人間じゃ無くさせるんだ」
小学生の時に平和学習で取材した時、戦争経験者のおじいさんが言っていたことばだ。
私は、今、「日本人」「女性」「大学生」という世俗的なアイデンティティがある。しかし、本当に私は日本人で女性で大学生なのだろうか。 私が人間で日本人であることは誰が決めていて誰が保証しているのだろうか。

戦争と芸術を考えた時、なぜ人は表現するのかについて考えさせられる。

 白井晟一の「原爆堂」はアンビルドとなってしまったが、核という人間の操作可能の限界を超えたものに対する、このような問題提起があったのではないだろうか。人間という存在を自覚し、我々はもう間違いを犯さないために、これからを考えたい。


 記事のトップの写真は、小野まりえの映像作品「私は天皇が好き、天皇も私は好き。」(10min)のワンカットである。


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