見出し画像

このご飯を食べ終わったら、わたしは死のうと思ったのだ。

森山直太朗の生きてくことが辛いならって歌を聴きながら、泣きながらご飯食べて、このご飯を食べ終わったら死のうと思った

当時のTwitterより

うつで苦しんでいた頃のTwitterを見返していると、こんなことが書いてあった。

わたしがうつを発症してからもう4年になる。この病気にはかなり苦しめられてきたが、ここ1〜2年はだいぶ症状も落ち着き、飲んでいる向精神薬の種類もかなり減った。

クローゼットの中、車の中、窓の柵、タンスの取手。
これらはすべて、わたしが首を吊ろうとした場所である。

うつにADHDというブーストがかかった状態のわたしは、発症してすぐの頃、『死ななければならない』という考えに取り憑かれ、発作的に行動してしまうことが度々あった。

当時の配偶者(わたしがうつになった元凶)は、そんなわたしの行動を見て、明らかに病的であったにも関わらず「気を引きたいからってこんなことしやがって!」と、わたしの胸ぐらを掴んで顔を殴りつけてきたのだった。

そうしてわたしのうつはどんどんと悪化の一途を辿り、それから程なくしてわたしは精神科の閉鎖病棟に入院した。

この頃のわたしはもはや別人で、当時を振り返った家族は「元気だった頃のこの人はもう戻ってこないと思った。」と言い、現在もお世話になっている心理士の先生には「かなり危ない状態で、綱渡りの治療になると思っていた。」と言われたほどだった。まわりの誰もが、「こいつは多分死ぬ。」と思っていたのだろう。

それほどまでにわたしの心は元配偶者によってぐちゃぐちゃに壊されたのである。

当時の記憶はあまりなく、いくつか思い出せることのひとつが実家で両親や妹家族たちのいる前で「もう死にたい!死なせて!」と泣き喚いた時のことだ。

限界に達した母親が「じゃあお母さんが一緒に死んであげる!」と叫んでわたしの腕を物凄い力で掴んだのだ。

その後がどうなったのか全く思い出せない。が、この出来事はわたしの人生の中で最も辛かったことの一つで、今思い出すだけでも涙が出てきてしまうのである。当時は何も考えられなかったが、今となっては普段はお茶目で朗らかな母にあんなことを言わせてしまったということが何よりも辛くて、申し訳なかった。

そしてそんな修羅場の果てに、再び自殺を企図したわたしは閉鎖病棟にぶちこまれたのであった。

入院期間はさほど長くはなかったが、退院後も本当に苦労した。一度壊れてしまった人間が元に戻ろうとするのはそう簡単なことではない。いや、壊れてしまった人間は完全には元には戻れないのだ。回復できたとしても、元の人間をベースとした微妙に違う人間になるだけだ。

わたしは治療の甲斐もあり、なんとかほぼ元通りの人間に戻れたが、それでも出来なくなったことや、変わってしまった部分はある。

だが世の中のすべては変わっていくものである。人間だって変わっていくのだ。今の自分を愛し、生きていくしかない。

今はもう、あの頃の死にたかった感情はどこか旅行に出てしまったまま帰ってこない。そのまま、どこかで成仏してくれることを願っている。

いいなと思ったら応援しよう!