自然な姿。
願いがごとが叶うと、
大抵、喜びが押し寄せてくるので、
この喜びを連れて来てくれたのは、
物や出来事からなんだ!と信じているひとは、
多いいと思います。
ですが、よく見てみると。
どんなに叶えたかった願いも、
叶った喜びは一時のことで、
自我はまた少しすると
自ずから無いもの探しへ戻っていきます。
もしも、物や出来事から貰う喜びが本当であれば、
その幸せもそれなりに長く続くはずですが、
やっと叶ったのに、
こんどは他の不満へと変わっていく様子を見ていると、
あ~、これは物や出来事から貰う喜びではないんだ。
ということが、はっきりと分かります。
そうなんです。
願いが叶う時の、
喜びのほんとうの由来は・・・
願いを叶える為に頑張ってきた自我の
加力が解放されたことで、
『ただ在る自分(本体)』が鮮明になって、
とびきりの喜びを体感している。のです。
霧が晴れるという意味で、
あー!難ゲーム勝てた!すっきり!
みたいな時の感覚と近いかもしれません。
つまり、わたしたちの自然な姿こそ、
この『ただ在る。』っていう、
喜びそのもので、
じっと静かにしているだけで、
実はいつもそこにある。と言えます。
もう少しみてみると、
『自然の姿 。 喜び 』というのは、
時を介さない ただ、ある。これ一本です。
もう在るもの。そこから動かないもの。
当然なこと。なので、
現象を体感する自我がどんなに頑張っても
見えっこないものです。
だって自我は、
この現象を体感しているだけであって、
実在がないので、
架空が実在を見ることは出来ません。
加えて、過去未来を旅する存在なので、
今には居られない性分です。
なので、自我が努力すればするほど、
ただ在る。(今)は、すっぽりと、
抜け落ちてしまうのです。
私たちは、自我の努力に隠されてしまっている
この自然な姿(喜び) を求めて、
何兆マイルと旅をしている訳ですが、
ヤーヤー対戦することで生じた煙に
ゴホゴホ咳をしてるって感じなので、
エゴに幸せ探しを任せたら、
終わりのない旅になってしまいます。
上にも書いたように、
本来の幸せって、つまり、
ただあるって事。です。
しかも、みんな平等です。
そう、私達ってほんとうにおもしろいんです。
なんの冗談?ってことを、やっているんです。
なぜだかは、
みなさまの好きな想像に任せますが、
わたしは、単なる偶然*と思っています。(笑)
理由をつけると、また終わりのない旅のはじまりだからです。
なのでそんなことから、
スキに生きたらいいんだよー。 が
ほんとうに本当のラストワードなのかな。と私は感じます。
誰かが誰にとやかく言う事もないし、
教えることもなく。
だた、自分だけがスキにしていたら
それで十分です。
それでいつか疲れ果てて知ることが起これば、
知ったことが意識(本体)によって、
その旅を終わらせてくれます。
☆今回の日記のまとめ。
願いを叶えた自分の実感する喜びが、
本来の自分そのものと等しいことを知っていれば、
誰にとってのどんな願いも、
もう既に叶って、全て揃ってる。事と同等となる。
⥣ 時を介して翻訳すれば、⥥
1・願い事というのは、こっちへ進もうというサイン。
2・叶うことというのは、叶える誰かが居るのではなく、
ただ 現象に見る。ということ。
この2つの前にある決まり事として、
0・既に叶って、揃っている前提で。
この2つ+基盤は、
スキを生きる中に、ぜひとも活用してください🌟