
『言葉の守り人(J-nool Gregorioe’, juntúul miats’il maya)』
文中に挟まれるマヤ語の一言にハッとする。
カー・シーヒル・ターン!
「言葉が蘇る!」
なんて不思議な言葉だろう。
何語だって?
マヤ語!
そんな言葉を話す人々が現代に生きているのか。そして、そんな言葉で執筆した文学を日本語の世界に今回、送り込んでくるなんて。
ユカタン半島でマヤの呪術的な文学を書いている作家がいる。無性にこの人と話がしたくなってきたぞ。
仏道で『阿頼耶識』というのがあるが、サンスクリット語でいうとalaya-vijñana、つまり「蔵の識」だ。
人間は心の中に言葉をしまっている。例えば韓国のイ・ギジュの『言葉の温度』のように、ひとたび心の蔵から言葉を解放すれば、他の人を暖かく包み込むこともできるだろう。イ・ギジュは心の弱さの本質的な部分を言葉にするのが上手いのだ。
あるいはドストエフスキーの『地下生活者の手記』のように、ありったけの憎悪を心の中からぶちまけるような、負の感情も全て阿頼耶の中からやってくるのである。ただし、『手記』の悪意の中には救済があり、慈愛があり、信仰が隠れているような気がする。実は実存へのラブレターではないかと思っているくらいに、気持ちのよい悪意が垂れ流されている。慈愛で包まれたかのようなレバノンのハリール・ジブランの詩とは全く異なる、灰を被ったような愛である。
このような言語の構造はマヤ文学『言葉の守り手』が包括してしまう。
「それはお前の魂の言葉なのだ」
なんと暖かで素朴で簡潔な表現なんだろうかと思う。心は言葉をしまっておく洞窟ではないんだとメキシコ、マヤの詩人、ホルヘ・ミゲル・ココム・ベッジは書く。
心の蔵に言葉を閉じ込めないからこそ、おじいさんが語るマヤ的な世界は、マヤ語の中で具現化し、マヤの伝統として文字の上で生き続けるのである。そうすることにより、それは今においてマヤの過去との出会いを可能にする。
しかし、呪術的といってもエイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』のようなサイケデリックな文章ではない。諸星大次郎が『マッドメン』で描いた土臭い、土着臭が漂う怪しい冒険譚でもない。ホルヘの書くマヤの魔法的世界はおじいさんと「ぼく」を中心にキリスト教世界との狭間で幻覚的に揺れ動いている。
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