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#32 コサ語の世界をポコっと見てみよう

ヒューマンビートボックスをやってみたことはあるだろうか。私ははどんなに頑張っても習得できなかったし、ボイスパーカッションも下手だ。でも、ホーミーは少しできるようになった。下手ではあるが、少しホーミーができることは自慢である。頑張れば人間はいろんな音が出せるのである。人間は口と肺だけでここまで豊な音楽表現ができるのは驚くべきことだ。

しかしながら、言語も十分音楽的なものである。というのも、言語はそれぞれに音韻体系を持ち、固有のシステムがあるからだ。異なるシステムがぶつかった場合、会話に障害が出たりすることもある。

例えば日本語の世界の人間が馴染めない音の代表格がLである。私がロシアのチュヴァシ共和国に行って講演のようなことをしたことがあった。そこではエスペラント語をしゃべって生活していたのだが、あるとき、何の単語だったか思い出せないが、何かの単語のLとRを間違えてしゃべり会話が成立しなくなったことがあった。「どうしてそんな簡単な単語を間違えたんだ」と聞かれた。そこで「日本語はLとRの区別を持たず全てRの音として処理する」と説明したら、話を聞いていたロシア人たちが「Lが分からないなんて…!」と非常に困惑してくれて楽しかった。日本語ではLとRの音の区別は意味をなさず、ロシア語やエスペラント語では逆に明確な音の区別を必要とするのだ。

コサ語の発音

ところでロシア語にはLとRの厳格な区別がある一方で、私たちの日本語にLが意味をなさないように、人間というものは言語に応じて意思疎通で使える音が定められている。ただし、英語や日本語だけでは人間が口と肺だけでどれだけ豊な音を作れるかはわからない。そのため、人間が音楽的であることを再発見するためにはヨーロッパやアジアを離れて、もう少し広い視野で言語を眺めなければならないのだ。

その点でコサ語は特徴的な発音という観点で名前が挙がることが多い。ハリウッド映画『ブラックパンサー』で役者たちが「ぽこっ」や「カコッ」と音を鳴らしながら個性的な言語をしゃべっていたことを記憶している人もいるかと思う。この言語の特徴はなんといっても「クリック音」あるいは「吸着音」と呼ばれる発音だ。わかりやすくいうと私たちが何か悔しいことがあったとき、舌打ちした「ちっ」という舌打ちの音などがそれに近い。イメージとしてはその「ちっ」っと舌を弾くのと同時に、あ、い、う、え、おなどの母音を同時に発音するのである。幸いにもコサ語の母音は日本語と同じ五種類しかないので簡単だ。

私たちの生活にとって、舌打ちというのは不快や不満を表すこと程度にしか用いられないが、言葉を伝達するための重要な手段になっているのは驚きではないだろうか。またコサ語では他にもポコっと舌を口の真ん中に押し付けて舌を弾いた時に出る音(Q)も発音の一つとなっているように、吸着音の世界は奥が深い。動画がいろいろアップロードされているので百聞は一見に如かずで見てほしい。

コサ語の構造

コサ語の世界は発音だけでは終わらない。言語の類型論にはいろいろある。古典的な分類の仕方としては単語の形が変化しないベトナム語のような孤立語、単語にのりをつけるようにパーツをつけて意味関係を表すトルコ語のような膠着語、ロシア語のように名詞が役割に応じて形を変える屈折語のように分類される。

コサ語は他のバントゥー諸語のスワヒリ語などと同様に抱合語的な特徴を持つ。抱合語とはつまりざっくりと言えば、単語一つにさまざまなパーツがくっついて非常に長い意味を持たせることができるタイプの言語である。

例えば色々な言葉の「私は弁護士です」を見てみよう。

  • 中国語:我是律师(我-是-律师)
    中国語はもっぱら孤立語に分類させる。理由は単語それぞれが変化しないからである。英語の仲間は基本的に屈折語に分類されることが多いが、屈折的特徴が乏しくなってきた英語も"I'm a lawyer"だけ見れば孤立語的と言えるだろう。

  • 日本語:私は弁護士です(私+は-弁護士-です)
    日本語は膠着語に分類される。「は」のあり方については議論があるがここでは「私」に「は」がくっつくことにより「弁護士です」という話題の中心になることができている。このように単語にパーツをくっつけて意味関係を表す傾向を持つ言語は膠着的と言えるだろう。

  • グリーンランド語:Eqqartuussissuserisuuvunga(Eqqartuussissuserisoq-u-vunga) (1)
    エスキモー・アレウト語族に属するイヌクティトゥット語やグリーンランド語の「私は弁護士です」はまるで一つの単語にしか見えないが、その実、単語や文法機能を示すパーツや介在母音など、多様な寄せ集めから構成されている。これがコサ語と同じ傾向を持つ抱合的な言語の特徴である。

それでは肝心のコサ語はどうだろうか。

・コサ語:Ndiligqwetha (ndi-l-igqwetha) (2)
コサ語はグリーンランド語とはいささか単語の集まり方が違うが、グリーンランド語と同じように、見かけはあたかも単語一つのようだ。だが、実際には複数のパーツや単語が集まっている集合体なのだ。"Ndi"は「私は〜である」で、"-l-"は「弁護士」などを表すためのマークが間に入っていると考えていい。そして"igqwetha"、「弁護士」と続くのである。ちなみにちょっと言語学的に言うと、この"l"は名詞クラスを表すためのケースマーカーなのだが、脱線するので言及しない。

このようにコサ語の世界は発音だけにとどまらず、言語の構造においても非常に興味深いものとなっている。とはいえ、バントゥー諸語の中で一番名前の知られたスワヒリ語ですらかなりの文法量があるので、文法や単語を覚えることが苦手な人はコサ語は向かないかもしれない。個人的にはスワヒリ語の文法を学んでみてからコサ語を学ぶのがいいかもしれないが、ドイツ語やロシア語で挫折した人、フィンランド語の格変化を見て吐き気がする人にはコサ語は向かないかもしれない。

とはいえ、コサ語はアフリカを中心に約八百万人の話者を誇り、南アフリカ共和国の十一の公用語の一つでもある。そのため数で言えば、十分に実用性があり、かつ話者人口はフィンランドやデンマーク、ノルウェーの人口をはるかに超えるため、北欧諸国の話者よりも実は遭遇する確率が高いはず。しかしながら、私の人生において北欧言語の話者は数多くあったがコサ語と出会ったことはない。なんでなんだろう。

いつかコサ語を話す人にあったなら、うまく吸着音を発音させて驚かせてみたいものである。

"Molweni, ndinguMasaya. Uyasithetha isiXhosa…?"

とか言いながら、あれ、一個しか吸着音が含まれていないじゃないか!


脚注

(1)Eqqartuussissuserisoqは-soqという行為者化する接尾辞で終わっているため、他の接尾辞を後続させる場合、母音交代を起こし、-soqの"o"が"u"に変化し、"q"が脱落する。そして、「私は〜である」を表す"vunga"がくっつくが"-soq"と"-vunga"の間に"-u-"の介在が発生し"eqqartuussissuserisuuvunga"が得られると解釈している。

(2)pp.47, "Complete Xhosa", Beverly Kirsch, Silvia Skorge, Teach Yourself, 2016


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