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日本ではヨーロッパ人が語学に強いのが標準だと思われている件

結論から言えば、そんなことはない。

「でも、ヨーロッパの人はいろんな言葉をしゃべる人ばっかりじゃないか」

———とそんな声が聞こえてきそうだ。

この際、いろいろ振り返ってみようと思う。

ヨーロッパとはなんだろうか?

でもそもそもここでいう「ヨーロッパ」ってどこのことなんだろう?

いつも問題の一つになるのが「ヨーロッパ」という言葉。このヨーロッパとは一体「どの国」のことなのか。それともどのような範囲の定義に基づいた「ヨーロッパ」のことなのかがということは聞いてくる人の認識に左右されていて、よくわからない

例えば私が出会ったヨーロッパの人が必ずしも多言語話者であるということはなかった。ドイツ生まれのドイツ語しかしゃべれない人もいた。イタリアから移民として出稼ぎにきたが、ドイツ語がしゃべれないので学校で勉強している人もいた。結局は事情は人それぞれ様々なのだ。

従って、上記の面から見て「ヨーロッパとは」で話を始めることはできないと思う。誤解を招くし、リスキーな論の展開の仕方だと思う。少なくともみんな、日本の人たちと同じで頑張って色々な言葉をしゃべれるようにしているである。

欧州連合(EU)は確かに多言語政策を推進している。例えば二〇〇一年の欧州言語年のパンフレットによれば、レベルを問わず、二言語以上の習得を推奨している※1。しかし、その政策に基づく教育が必ずしもそれが全ての人々にとって等価な効果をもたらしているわけではない、というのが暮らして見えたヨーロッパの側面の一つだ。

どんなに教育理念が高くて、高い志があったとしても、どんな学校にもそれに適さない生徒はいるし、うまく授業のスタイルに合わずに辞めてしまう人もいるだろう。語学や研究に興味がないから、大学へはいかずにひたすら靴を作るような、モノリンガルの職人の世界へ足を踏み入れる子供たちもいるだろう。

語学のチャンスは日本と変わらない

ところで、ベルリンのケースを思い出してみる。ベルリンのフリードリッヒ通りにドゥスマンという大きな書店があり、筆者もよく本を買いに通っていた。

しかし、覚えている限りでは語学本の仕入れの傾向はあまり買わないような記憶がある。中心となるのはやっぱり英語、フランス語、スペイン語、イタリア語などであり、ベルリンだから、ヨーロッパだからと言って特殊な言語の本が仕入れられているわけではなかった。

確かにヨーロッパ言語の本の冊数や日本でいうところの「洋書」の豊富さは日本とは異なるが、「英仏西伊などのメジャーな語学書だけがぎっしり」というのは、こちらとそんなに変わらないように記憶している。

例えば夜学でエストニア語を受講していたのだが、エストニアはドイツと海を跨いだお隣の国のはずなのに、首都のベルリンでエストニア語の本なんて売っていない。ドゥスマンではEstnischの教科書が一冊あるかどうかくらいの絶望的な品揃えだった。そのため、学校から指定された教科書は注文しなければならなかったので途中まで隣の人の教科書を読ませてもらっていた。

それを考えれば丸の内の丸善などへ行けば、以前は棚に『まずはこれだけエストニア語』や『エストニア語入門』が並んでおり、洋書コーナーに行けばエストニア語と英語の辞書も売っている。それを考えれば日本の方が品揃えが上だったのではないか。むしろ少数言語やアジア系言語の品揃えでいうと、日本の大型書店よりもドゥスマンの語学書の幅広さの方が狭いのではないかと思う。個人的には期待外れで正直がっかりだった。

なぜとても上手そうなの?

それでは、語学書の入手環境が日本より狭い環境であるなら、なぜ語学が上手いように見えるのか。

いくつか理由があると思うが、ここではいわゆる「言語間距離」を取り上げる。「言語間距離」とは言葉そのまま、言葉同士の近さのことである。ヨーロッパはイベリア半島からトルコ手前のバルカン半島までいくつかの例外を除き、ロマンス語、ゲルマン語、スラヴ語に属する、いわゆる兄弟言葉が散らばった地域で構成されている。これがヨーロッパの地理から見た言語的特徴である。そのため、もともと言葉の構造が非常に似通っているため、もともとの自分の母語知識を転用できる部分が多い。

そのような理由からある程度のレベルに辿り着くまでに日本人が英語を勉強する時間とオランダ人が英語を勉強する時間には圧倒的な差が生じる。特にオランダ語や英語のような近い親類関係にある言語の場合、自分の母語からの逐語訳でそれなりの言葉が仕上がることもある。日本語とヨーロッパ言語の母語話者がヨーロッパの言語を勉強する場合、言語の構造から見てスタート地点が異なっていると言える。

政治的なポリグロット

政治的な理由もある。政治的な理由でお互いに非常に似た言語であっても異なる言語とされることがある。そのため、「政治的に」ポリグロットになってしまう人もいる。例えば典型的な例はセルビア語とクロアチア語である。

初心者ながらの印象としてはクロアチア語はロシア語やスロヴァキア語のような西・中欧のスラヴ語寄りの特徴を持っているように見える。一方でセルビア語はバルカン的な特徴が強いように思える。いずれにしても両者は多少の語彙の違いをのぞき、ほぼ同じであるように外国人には感じる。

だが、クロアチア人やセルビア人はそうではないようだ。まず文字の違いもそう。「イェ」とクロアチアで言うところをセルビアでは「エ」と発音するという微妙な違いから、クロアチア流に助動詞の後に不定詞をそのまま置くのか、それともセルビア流に"да"という「つなぎ」のパーツを助動詞の後ろに置いて、その後、助動詞も"да"につなげた動詞も人称変化させるのか、というような違いまである。

事実上、クロアチア語とセルビア語は日本の関西弁と関東弁程度の違いなのかもしれない。でも国が違う。そのため、彼らは似た言葉であることは認めるが、どうしても同じ言語だとは頑なに認めない。

ところで、多言語話者のイベントではよく自分の話す言語名をカードにして首にぶら下げておくということをやる。クロアチアやセルビアからきた人が自分のしゃべれる言語にちゃっかり「クロアチア語」と「セルビア語」を登録しているのをみると「こういう時ばっかり両方話せる多言語話者になっちゃってずるい!」と個人的に言いたくなる。

フィンランド語の場合

ヨーロッパの人が揃い揃って語学の天才でないことはいつもフィンランド語で実感する。フィンランド語初心者のヨーロッパ人のフィンランド語はいつもむちゃくちゃ下手なのだ。上手い人もいるが、その人は変わり者かフィンランド研究やウラル系言語の専門家であったりとその道のプロであることが多い(偏見)。

フィンランドの公用語の一つであるフィンランド語は英語やフランス語、ロシア語などが属するインド・ヨーロッパ語という言語に属していない。つまり、地理的に兄弟言語で占められているヨーロッパの中にポツンと全く親戚関係にない言語がスウェーデンやデンマーク、ドイツやロシアに囲まれて存在しているのである(なお、前述したエストニア語もフィンランド語の仲間だ)。

個人的な印象としては発音に多くの人が戸惑っているように思う。例外はいくつかあるが、多かれ少なかれヨーロッパの言語はアクセントと長音は一定の関係にある。しかし、フィンランド語はそうではない。アクセントと音を短くするか長くするかは別問題なのだ。長音と短音を区別し、かつ常にアクセントは第一音節に固定されているこの言語の単語の発音は相当苦戦するらしく、大学のころにフィンランドから留学してきた学生にフィンランド語を教えてもらっていたドイツ人たちは口を大きく開けて「んあ〜」などと頑張って長く発音していた。ヨーロッパ人にとってフィンランド語は猫の言葉どころではないのである。

私は先月行われたポリグロット・ギャザリングでフィンランド語のチャットルームに待機していたのだが、誰一人として参加者は来なかった。スペイン語、フランス語、イタリア語、英語、ロシア語など勉強しやすい言語のチャットルームにはわんさか人がいたにもかかわらず、この違いはなんなのか。

語学書でいうと、フィンランドの語学書も日本同様、EU内であってもフィンランドの外で見かける機会は少ない気がする。ドイツなら例えばPONSのフィンランド語や黄色い表紙が目標のLangenscheidtの辞書があっても普通程度で、それ以上の詳しい語学書はあまり見た記憶がない。

終わりに

上記にヨーロッパ人が決して語学がうまいわけではないということをつらつらと書いてきた。

結論としてはヨーロッパの人がいわゆる外国語を上手く話せるように見えるのは色々な要因の積み重ねであって、語学に関するポテンシャルがヨーロッパ人と日本人で異なるからではないということを言いたい。

日本のケースはもっと悪い。何か勉強意欲をそそる理由があればいいが、日本人は理由も説明すらもなく英語の中に放り込まれる上に、無理やり勉強させられる英語が自分が社会の中で生きる上でのパラメーターになってしまうのである。しかも日本は英語がなくても生きていけてしまう。この国は何かがおかしい。

しかしながら、それを自分の才能のせいや言語のせいにしてほしくはない。言葉はそもそも楽しいものだし、才能は元からあるものでなく伸ばすものではないだろうか。そしてそれを自覚するのは英語でなくたっていいのだ。

世の中にはヨーロッパの言語だけでなくアジアもあるしアフリカやアメリカ大陸もある。世界では約五〇〇〇の言語が話されているのである。その中には自分が人生の大きな時間をかけるに値する「これだ!」と思える言語がきっとあるはずである。タタール語かもしれないし、コサ語かもしれないし、古代エラム帝国のエラム語の解析に人生を賭けたっていい。人工言語のエスペラント語に人生を捧げている人もよく知っている。

語学とそんな生き方をしてもらいたいな。

修正

(1)例えば二〇〇一年の欧州言語年ではレベルを問わず、三言語以上の習得を推奨している→例えば二〇〇一年の欧州言語年のパンフレットによれば、レベルを問わず、二言語以上の習得を推奨している(2021/6/18)

参考文献

※1. "Campaign Book of the European Year of Languages 2001", Modern Languages Division Council of Europe, Strasbourg,2001, p.9 " Why is the Council of Europe concerned with language learning?"

写真:

Photo 117799787 / Dussmann © Cineberg Ug | Dreamstime.com

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