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長距離列車で起きた珍事|Switzerland

ベルンへ向かう最終列車、の一つ前の便に滑り込み、空いている席を見つけてようやく一息つくと、列車が緩やかに動き出した。

僕の右隣、窓側の席に背を預けたのは旅の道連れ、その名をポロという。
チューリッヒから日帰りのつもりでツェルマットに出かけてきて、僕たちは今まさに帰路に着いた。


踊るラム肉

ベルンで乗り換え、チューリッヒに着いたらトラムとバスを乗り継いで、郊外の宿へ直行する手筈だ。すでに夕食は済ませたし、シャワーを浴びて後は寝るだけ。

思えばずいぶん遠くまで来た。天気に恵まれた良き一日だった。
身体は程よく疲れていて、胃の中では極上のラム肉ヒツジが小躍りしている。あと何度か羊たちが跳ねた頃合いに、気持ちよく眠りにつけそうだ。

さっきからポロは、僕のことなんかお構いなしにスマートフォンを操作している。
よせば良いのに、きっと明日のスケジュールの確認とか、行き先の情報を調べたりとかしているのだろう。

僕はインターネットにアクセスできないし、外は殆どただの暗がりで、窓には車内の様子が映し出されているだけ。
だから座席に腰を落ち着けて、今日一日の余韻を存分に楽しんでいる。
なのに、さっきからその微睡まどろみに横槍を入れるような気配が漂っているのは、一体どういうことなのだろう。

不意にポロに促され、前方の電光掲示板に目をやった。不思議なもので、そこに表示されている文字が〈行き先〉を示すのだと直観的に理解できる。

綺世キセ、まずい事になったかも」

長距離列車で事件が起きる小説についての回想

長距離列車を舞台とした事件と言えばアガサ・クリスティの『オリエント急行の殺人』が浮かぶかもしれないけれど、僕が想起したのは伊坂幸太郎の『マリアビートル』だ。
日本の新幹線の電光掲示板に表示される文字が、その車内で設定されるわけではないと、この小説から教わった。

とはいえ何がまずいのか、状況が分からず神妙な顔をするポロを眺めながらボンヤリしていると、ポロは反応の薄い僕に焦燥感を覚えたらしい。

仕方がない。気休め程度で良いから祈ろう。
この列車で起こっていることが、『オリエント急行の殺人』や『マリアビートル』に重ならないことを。

電光掲示板が示すもの

僕たちが目指しているのはスイスの首都ベルンだ。
なんでも12世紀頃に町を作った時、初めに捕らえられた動物が熊だったとか。市の紋章には熊が象られ、今でも街の其処此処に熊が息づいている。
もしかすると人の形をした住民も、実は熊だという可能性もゼロではない。

そんなわけで〈Bear〉に由来するベルンは〈Bern〉と表示されるはずが、その電光掲示板が言うには、僕たちが乗り込んだベルン行きの列車は今、Domodossolaドモドッソラを目指しているらしい。

勝手に行き先を変えるなんて、とんだワガママな列車が居たものだ。
日本では到底お目にかかれない珍車両がどんなツラをした奴だったのか、残念ながら全く覚えていない。

Domodossolaドモドッソラはイタリアへ踏み込んだ少し先の街で、明後日の方角へ進んでいることになるそうだ。
シェンゲン協定国間の移動だから、国境越えとはいえ奈良から大阪や京都へ行くようなものだけれど、国境付近の少々治安に不安のある見知らぬ土地へ夜に到着する上、そこから引き返しても今日中にチューリッヒに帰り着けない可能性が高い。
といったことを、ポロは修羅の如く調べていたらしい。

ナルホド。状況はわかった。

ハプニングはお好き?

外を見ようにも、そこに在るのはただの黒いスクリーンで、今どこを走っているのかなんて到底わからない。土地勘も無いし、景色が見えたとしても今走っている場所など見当もつかないだろう。

窓には分かりやすく狼狽えるポロと、特にすることもなく満腹で眠そうな僕、そして向かいの席の親子が映っている。

同じボックス席の目の前に座る少年は、隣の父親が焦る様子に不安になっているのか、単に状況が飲み込めずボンヤリしているのか、あるいは僕と同じく非常事態と思しき状況にワクワクする心をひた隠しにしているのか、見た目ではよくわからない。

電話中の父親はきっと今の状況を奥さんにでも説明しているのだろう。
恐らく「なぜ乗る前にちゃんと確認しなかったの!?」などと怒られているのだ。
このような状況下では安心できる言葉がほしいだろうに、実に不憫である。

何よりそんな光景を目の当たりにすることで、子供は両親のパワーバランスを汲み取っているに違いない。
ヒトの子は精神よりも身体の成長が圧倒的に遅く、たとえ子供に見えても中身は既に大人である。そして意外なほど冷静に、自分たちを子供扱いする大人を観察しているものだ。
この先が思いやられるが、別に僕の知ったことではなかった。

できることは早々に諦めることだけ

ソワソワと自分にできることを探してしまうのは、ヒトのさがなのだろうか。

ポロはこの無力な、もとい何の役に立ちそうもない僕を無事に連れて帰らねばと責任を感じているのだろう。
まったく、持つべきは頼りになる友人である。

僕はこの状況を夢ではないだろうかと感じ始めていた。
夢の中では往々にして不思議なことが起こるし、たいてい何かしら困っている。きっとこれもその類なのだろう。

今、僕にできることは何も無い。

腑に落ちると同時に、微睡まどろみにも堕ちていった。
すると周囲のざわめきが途端に声を潜めたのだ。

大いなる眠り

夢ならば、何処へ向かっていようと知ったことではない。
Domodossolaドモドッソラだろうと、ギリシャだろうと、かまいやしない。
ポロ、君も同じく、大いなる眠りをむさぼっているに違いない。

目覚めた瞬間の閃き

おかげでスッキリ爽快、バッチリお目覚めだ。
だが、さっきの騒動は夢オチではなく、僕が寝落ちしただけだ。

今日一日に味わった精神の解放と充実した疲れがもたらした完璧な眠りは、時間にすれば5分か10分くらいのものだろう。

その間に何があったのか、僕は目覚めた瞬間にヒラメキの如く理解した。
けれど、今はそれどころではない。

ギリシャに到着?

見ずともわかる、右方向にけぶり立つ瘴気。
数匹の黒々した蛇がうねうねとその前身をもたげているような気配がする。
こちらを威嚇する直径3〜5センチメートルの数多あまたの蛇はまるでメドゥーサで、目を合わせずとも僕は石になってしまった。

「こんな状況で、よくも眠れるもんだ」
ポロの恨めしげな声がする。
「一人取り残されて、心底不安だったんだからな」
これは真面目に答えた方が良さそうだ。
「もし本当にDomodossolaドモドッソラに到着したら、その時こそ頭をフル稼働させる必要があると思って……」

ワナワナと震え出す歩狼ポロと狸寝入りする僕。

列車は順調に走行中で、もちろんスイスの首都ベルンに向かっている。
何ということはない。
車内に混乱が満ち、騒然とし始めた頃に車掌が現れた。乗客が口々に質問すると驚いた車掌が電光掲示板を振り返り、そして陽気に答えた。

「表示は間違っているけど、ベルンに向かってますから、皆さん安心して!」

現実なんて、こんなものだ。


この物語は実体験を元にしたフィクションです
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