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2024 東京学芸大学 E類教育支援専攻 ソーシャルワークコース 小論文 模範解答
筆者によれば、利他的な行為においては「与える側」と「与えられる側」という非対称な関係が生じ、対等な人間の関係性が損なわれるという意味において、「与えること」は毒になるといえる。しかし、他者に対する制御の外にある偶然の力に委ねると、そこから漏れ出たものを他の誰かが偶然手に取ることによって、結果として利他につながることが示唆される。つまり筆者によれば、意図して行うのではなく、偶然に誰かのために行われることが結果として利他へと漏れ出ていくといわれる。
こうした筆者の考え方は、さまざまな種類の問題を抱える他者のために支援を行う社会福祉の現場においても重要だと考える。というのも、社会福祉の現場においては、支援を要する人々に対して支援を施すという「与える側」と「与えられる側」という非対称な関係がどうしても浮き彫りになるからである。その結果、課題文において指摘される子ども食堂のように、支援を届けたい人に支援が届かないという事態も生じうる。つまり、支援を与えられる側は、「かわいそうな人」や「困っている人」というレッテルを張られ、そのような存在として扱われることを忌避することが考えられるからである。
したがって、支援を要すると判断される特定の他者に対して、支援を意図して行うというのではなく、意図せずに広く誰かのために行われることが、偶然に特定の他者のためになるような取り組みも、支援のあり方として認めていく必要があると考える。なぜなら、現行の社会福祉の現場においては、支援を要する人々を特定し、認定することが制度の基本となっているからである。
また、利他としての支援が、筆者の述べるように「与える」ではなく「漏れる」ことにその本質があるとすれば、支援を必要とする者を特定し「与える」という発想ではなく、広く誰かのためになりうることを継続的に行いながら、本当にそれを必要としていた人が偶然にその支援を受けるという仕組みが必要となる。そのためにも、「困っている人」や「かわいそうな人」とされる特定の人に対して対処療法的に支援を行うのではなく、人々が困っている「事態」や人々が問題を抱える「構造」に目を向け、そうした事態や問題の解消のための取り組みを行うことが、これからの社会福祉の現場においても不可欠になると考える。(953字)