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2024年度 横浜国立大学 教育学部 学校教員養成課程 学校推薦型選抜(全国枠)小論文 模範解答
問1.
キリスト教においては、人間にとって常にただ一つの「本当の自分」としての「個人」が唯一の神を信仰することが重視される。また、西洋由来の論理学においては、それ以上分割不可能な単位としての「個体」の扱いが問題となり、人間は単位としての「個人」として扱われる。こうした、それ以上分割不可能な単位でありかつ「本当の自分」としての「個人」という概念がよくわからなかったのは、複数の人格をすべて「本当の自分」であるととらえ、神ではなく具体的かつ多種多様な人々と向き合っている日常を当然と考える日本においては、「個人」という西洋文化に独特の概念が日本人の実感から乖離していたためであると筆者は考えている。(294字)
問2.
この矛盾とは、具体的かつ多種多様な人々のもつ複数の人格はすべて「本当の自分」であると私たちが考えている一方で、私たちの生活においては、そうした具体的で多種多様な人々のあり方を捨象して、すべての人々を「個人」として一元的に扱おうとすることである。
この矛盾と向き合うためには、私たちの他者へのまなざしが鍵となると考える。というのも、他者をどのように見るかが問われていると考えるからである。つまり、私たちは誰もが当てはまるような抽象的な「個人」というあり方を本質的にはしていないのだから、他者のもつ具体的かつ多種多様なあり方に向き合うことが不可欠であると考える。というのも、「個人」ではなく、具体的なその人に向き合うことが私たちのコミュニケーションの基盤であると考えるからだ。たとえば、学校においても教員は生徒を抽象的な「個人」としてみるのではなく、多様なあり方をする生徒の一人ひとりに向き合うことが不可欠である。したがって、抽象的な「個人」として人を見るのではなく、それぞれ異なるあり方をした人間に向き合おうとする姿勢が私たちの生活においては重要であると考える。(479字)