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石川啄木 「女遊びと借金の達人」 ろくでなし人生さえも魅力的

(6分で読める)




貧しさと病苦にあえぎながら
26歳にしてこの世を去った天才歌人

生活苦を詠んだ歌人
実は女遊びで借金まみれ …


その貧窮は自業自得なのか






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石川啄木
1886年(明治19年) –1912年(明治45年)。岩手県盛岡市生まれ。歌人、詩人。本名は石川一いしかわはじめ。寺の住職の一人息子として生まれる。文学を志すも、作品は売れず小学校の代用教員や小樽日報の記者、東京朝日新聞社の校正係などを務めた。金田一京助など友人から多額の借財を重ねつつ作品を発表するが、肺結核を患い貧窮の中に生涯を閉じる。写真左は親友の金田一京助。



独特な三行書きスタイルの歌集

 『一握の砂いちあくのすな』、『悲しき玩具がんぐなど生活上の詠嘆えいたん(感動を声にまで出すこと)を題材とした歌集が高く評価されたのは、その死後のことでした。石川啄木の作品は、短歌の「五・七・五・七・七」ではなく、「三行書き」のスタイルで詩のようなイメージを持たせた口語体の表現が特徴的です。人間的には、ろくでなしのような人生でしたが、作品的には素晴らしく、ぜひ社会人のみなさんも再度読んでみてください。

カンニングがバレて中学校を中退

 懸命に生きながらも報われないまま短い生涯を終えた薄幸はっこうの歌人という印象が強い石川啄木。けれど実態はだいぶかけ離れていました。幼少期の暮らしは決して貧しくなかったらしい。盛岡中学校中退も期末試験で2度のカンニングが発覚したという理由によるもの。なお、この中学時代にのちに妻となる堀合節子や親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合いになります。

文学活動を始めるも家庭危機に

 19歳で処女詩集『あこがれ』を出版した啄木でしたが、この出版費用のため住職だった父が檀家との間で金銭トラブルを起こして寺を追われます。その一方で、19歳の啄木は初恋の相手である堀合節子と結婚。一家が経済的に追い詰められる中、啄木は母校で代用教員として働き始めますが、それでも困窮を極めていきます。節子は娘を連れて、生活苦や義母との不和に耐えかね盛岡の実家に帰ってしまいました。

女遊びと嫉妬深さ

 妻子がある身でありながら、東京では何人もの芸者と交際するなど、非常に奔放ほんぽうでもありました。一方で、妻子に家出されてひどく落ち込み、女性に依存する面も。手紙から妻と友人・宮崎郁雨みやざきいくう(歌人)の浮気を疑い絶縁するなど、嫉妬深い顔も見せます。

「ローマ字日記」を書き始めたころ

 東京朝日新聞の校正係として働き始めた啄木は、雑誌「スバル」を創刊し、同誌上で小説を発表。家出していた節子も親友・金田一京助らの尽力で帰宅します。のちに赤裸々な日記文学として評価される『ローマ字日記』を書き始めたのもこの頃。そこには貧乏に耐えながら文学に情熱を注いだ一面とは異なる啄木の素顔が、ときに露骨な性描写を交えて赤裸々に綴られています。それによると他人から借りたお金を女遊びや遊興費に使ってしまったり、仕事を無断欠勤したりと、生活苦にもかかわらず奔放な生活を送っていました。

『一握の砂』を1910年に出版

 この頃の啄木はようやく歌人として評価を受け、東京朝日新聞の朝日花壇の選者に抜擢されると共に、24歳で初の歌集『一握の砂 』を出版します。とはいえ貧困から抜け出すには程遠く、さらに啄木は持病の結核を悪化させてしまいます。病に倒れた啄木は、妻子と父、親しかった歌人・若山牧水に看取られ26歳の短い人生を終えました。この『一握の砂』は全部で551首が収められ、5部構成となっています。

借金まみれの石川啄木

 啄木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていました。特に先輩の金田一京助は、樺太に出張中にも啄木からの金の無心を受けています。このように啄木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録しています。合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる(現代の価値で1400万円ほど)。この借金の記録は宮崎郁雨によって発表されましたが、この後の啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というのが加わるようになっていました。

人を見くだす一面も

 啄木は友人宛の手紙で浦原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫や与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり、世話になった作家を侮辱したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさせし  人みな死ねと  いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど傲慢不遜ごうまんふそん(人を見下す態度)な一面もありました。

文豪3大クズの筆頭

 往年の文豪には、何かと人間的にクズな逸話も多いのですが、啄木は飛びぬけています。中原中也、太宰治と並び文豪3大クズとも言われたり。しかし、このような生活ぶりでも妻への想いと啄木の人懐っこさや、憎まれにくい性格も。彼の人間性が彼の作品の質を落とすものではありませんでした。クズだと言われても仕方がないかも知れないけれど、歌人として詠んだ歌や小説は評価が高いものが多い。自分の甘さや弱さを平然と人前にさらせる人間性が啄木の最大の魅力なのかも知れない。




『一握の砂』より


東海の小島の磯の白砂しらすな
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

東海の小島とは日本のことで、磯は北海道函館の大森浜。若き日々の悲しみを詠んでいる。あふれてくる悲しみに耐えかねて心が沈み、涙に濡れたことを懐かしむ気持ち、北海道函館の大森浜での悲しみを回想して歌っている。

はたらけど
はたらけどなおわが生活くらし楽にならざり
ぢっと手を見る

啄木の生活苦を歌った一首。啄木は中学を中退し文学を志したが、当時の文壇・歌壇は学歴主義の壁があった。またプライドの高い啄木は、満足できる職に就けず職を転々とした。

たはむれに母を背負ひて
そのあまりかろきに泣きて
三歩あゆまず

啄木は母・カツに甘やかされて育っていた。その母に経済面などで苦労をかけ、やせ細らせてしまった。そのことを腕と背中で否応なく実感し、涙を流す啄木の一首。ただし啄木の実妹・光子は、母に迷惑ばかりかけていた兄が母をおんぶするなどありえない、と記している。

ふるさとのなまりなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

ふるさとは啄木の出身地・岩手県である。停車場は東北地方からの鉄道が乗り入れる上野駅を指す。電話が普及していなかった当時、ふるさとの響きが恋しくなった啄木は、それを耳にするためには同駅へ行くしかなかったようだ。


一度でも我に頭を下げさせし  
人みな死ねと  
いのりてしこと

啄木が、やむを得ず頭を下げて借金を申し出た友人たちに一回でも「頭を下げろ」と啄木に言ったやつは「みんな死ね」と祈ったことがあると。貸してくれた相手に「死ね」なんて強烈ですね。が強く傍若無人なところがあったのです。予備校講師でタレントの林修さんは石川啄木の作品のなかで好きな歌として、この短歌をあげています。





 参考書籍
『一握の砂・悲しき玩具』(新潮社)
『文豪がよくわかる本』(宝島社)
などから適宜抜粋



2,958字






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