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岡崎と名古屋、現代写真アートを巡る旅 『現代フォトアートは変成する』 鑑賞メモ

最寄りの東岡崎駅からギャラリーまでは徒歩圏内、岡崎には少し馴染みがあった。前職で岡崎の自動車製造業向けのとある領域の情報システム構築プロジェクトに携わっており、岡崎へは3年程通った。大変なプロジェクトだったのと、ネガティブなことが多かったためか、この土地にあまりいい印象は持っていなかった。ホテルとプロジェクトルームの往復生活だったこともあり、そこまで馴染みのある土地ではないが、縁はあった。

駅から目的のギャラリーに到着するまでに川を渡る必要がある。橋を渡るために迂回だが、はじめての町でそうした迂回をするのは、半ば強制的に回遊することになり、それが町を知ることになる。公共施設の建物だろうか、そこを抜けたら新造の木造橋があった。Googleマップには桟橋のように表示されていたから、まだ新しいのだろうと思った。

愛知県から静岡県のこの地域は自動車産業の地域、冒頭にあったシステム構築も自動車製造業向けの仕組みだった。日本の主力産業としての自動車製造、その裾野産業の広さから、企業向けのシステム構築会社は、何かしら自動車産業向けのシステム構築に携わっているのではないだろうか。EV化による世界的な自動車産業のゲームチェンジは、産業構造の地殻変動を引き起こすだろう。トヨタ自動車が水素エンジンにかけているというCMは危機感を通り越して、悲痛な叫びにも聞こえる。

整備された岡崎の道路や街並みを見ながら歩く。
落ち着いた大通りにギャラリーがあった。

4人の作家が作品を提示する。

地下に提示されていた向珮瑜(コウ・ペイユウ)の作品、カラフルなフィルムが照らされて七色の空間になっていた。

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LGBTに関する提示であり、壁に貼られている紙は自分と周囲の反応とを中国語と日本語で示していた。それがレシートに印字されており、恐らく日本語は機械翻訳されたであろうテキストが掲載される。

印字をした簡易式のレジ機械も同じ会場に提示されていた。

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レシートに印字したのは、LGBTの消費に対する反応だろう。

ダイバーシティ&インクルージョン、カタカナ横文字にすると遠い感じがする。誰かがそうしたことを言っていたような気がする。D&Iであること、エシカルであること、サステナビリティであること、それぞれが独立した啓蒙的なメッセージになっている現在、このレシートによる応答は痛烈な批判であるだろう。

どこが転換点だったか覚えていないが、大学院生1年目は、ジェンダー平等に対するスタンスは否定的だった。もちろん差別ということではなく、身体的な違いによるそれぞれの役割があってもいいだろうと考えていた。違うところから出発する。もちろん他者への尊敬が前提である。そうした考え方から、まずジェンダー平等があって、その上で対話、議論するべきという考え方に変わったように思う。なぜ、そのような考え方に変わったか、何がきっかけだったのか、思い出そうと思っても思い出せない。ゼミ同級生とのジェンダー、フェミニズム、その他の対話から、そうした転換があったのだろうと思っている。LGBTに関しては、福岡アジア美術館で作品を何度も見た。まだ、ジェンダー、フェミニズムのようには捉えきれていないかもしれない。

1階にはREMA、多和田有希、大澤一太の作品が提示されていた。


名鉄に乗り、名駅に戻ってくる。名古屋会場のFLOWを訪問する。

この会場は伊藤雅浩と北桂樹の作品が提示されている。

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コンピューターグラフィックスあるいは抽象画のように見えるが、伊藤によれば、これは写真であるという。画像をプログラムを通して変成させる。そうして得られたアウトプットなのであるという。

来場者のコメントによれば、アフリカの草原、夕陽などに見えるという。鑑賞者の様々な心象風景を伊藤の作品の中に見出している。

写真はカメラを通してインプットし、カメラで処理され、画像としてアウトプットされる。カメラの機械的な進化によって媒体や技術は変わるものの、写真を撮って、画像を得て、見るという手順や行為は変わっていない。伊藤が提示する作品も写真であると言えるだろう。かなりラディカルなことをしている。写真というものが、どういうものなのか実験しているのだろう。

北が提示した作品は、そうした写真という概念そのものを疑うということ。

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翻訳カメラというアプリがある。読めない文字にカメラをかざすことで、画像認識して翻訳してくれる。通常は地図や案内表示板、レストランのメニューなどに使うことを想定しているが、北は、これを誤用し、日常のなんでもない空間にカメラを向ける。そこに浮かび上がる文字、何もない空間からAIが文字を読み取った。そうした事実を提示する。誤用によって技術そのものを前景化させる試みだろう。


伊藤の作品に翻訳カメラを向けてみると、意図しない言葉が浮かび上がる。

なぜ、そうしたのか?

この二人の作品が同じ空間に提示されていたことによるシナジー。こうした化学反応がグループ展に潜んでいる。そうしたことが面白い。

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ギャラリーの壁の左右に、北と伊藤の作品が、エリア分けされて展示されていた。一見すると関連性が薄く見えた展覧会だったが、対面して共鳴している。見えない存在を意識させる。そうした発見があった。


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Tsutomu Saito
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