《2.5次元アイドル》めじ
メディア芸術コースのめじさんの卒業制作はパフォーマンスだった。決められた時間に上演されるのではなく、リクエストに応じてパフォーマンスをしてくれる。
ステージの中央に大型モニターが設置されており、映像が流れている。近くにアーティストがいて、映像と同じ衣装をまとっているために、すぐに認識できる。
作品のことをいろいろ質問しているうちに「それならパフォーマンスをやりましょう」と上演してくれた。
中央の大型モニターの中に現れるアイドル、アニメーションのアイドルは歌に合わせて、外の世界に出たいと言う。そして、モニターの裏側からパフォーマーが現れる。等身大に映し出される映像と完全にシンクロするパフォーマー、アイドルというタイトルからエンターテイメントのように思わせるが、この作品はアーティストがシナリオを作り、音楽をあわせ、どのように生身とデジタルをシンクロさせるのかを綿密に設計する。上演の際はパフォーマーとなって、映像メディアの指示に従う。つまりコントロールが逆転している。
パフォーマンスのシナリオは、イラストの魔法少女が2次元の世界から外に出たいというもの、試行錯誤しているうちにモニターの外に出てしまった。当初は外に出られたことを喜んで、モニターに戻ったり、外の世界に出てきたりを楽しんでいたが、そのうちに外と内に自分自身が存在してしまい、二つのアイデンティティに分かれそうになる。
実際にはパフォーマーはそこに居て、映像は終わりがあることを知っている。メディアがパフォーマンスを支配しているのは、現在のソーシャルメディアに内包されたフォロー、フォロワーとの繋がりと、アルゴリズムによって人々の生活がコントロールされていること、バーチャルの世界からリアルに戻れないことを暗喩しているようでもある。
パフォーマンスのシナリオは単純明快であるが、デジタル世界に依存している現代人を標榜しているようだ。
パフォーマンスは演者と鑑賞者に暗黙的な距離を持つと考えるが、《2.5次元アイドル》は、パフォーマーが鑑賞者にマジカルステッキを渡してくる。これは鑑賞者への介入になる。簡単なことだが、鑑賞者の反応によってはパフォーマンスそのものが台無しになりかねない。ただし、このマジカルステッキを渡す行為は、鑑賞者が巻き込まれたことにより、アイドルのパフォーマンスとして強化される。
このマジカルステッキの介入は、2次元と3次元の存在の分裂を誘発させるのではないだろうかとさえ思えてくる。
岡山芸術交流で見たアン・リーは、観客は観客としてみていなければならなかった。パフォーマンスが始まった当初は、よくわかっていなくて、パフォーマーの問いかけに応えたりしてしまった。
石本陽は延々にパフォーマンスを実行していた。鑑賞者が立てる音をフィードバックする仕組み、鑑賞者がパフォーマーに介入することになるが、その介入はシステムの中に組み込まれていた。
もし意図しない反応を鑑賞者がしたとしたら、アドリブを行うのだろうか。後から、そんな緊張感があることが分かった。
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