ニューヨークタイムズ『Conceptual Anarchy』の読書メモ
ニューヨーク・タイムズのピエール・ユイグに関する記事、2014年の記事で、Randy Kennedyによるもの。記事にはスタジオの様子を撮影した写真などもあり、読みごたえがある。
ユイグのスタジオの風景描写から始まるテキスト、パリのスタジオは白い机とコンピュータが数台、キッチンにはエスプレッソ・マシンが設置されていて、壁には進行中プロジェクトのリサーチ資料が張り付けられている。作品制作の際のリサーチは深く、リサーチャーを何人か雇っている。アーティストというよりも、研究者のような、スタジオは研究室ともとれるだろうか。
このテキストは2014年のLACMAでのアメリカ回顧展にあたりインタビューを交えて書かれたもの。
回顧展に何を出すのか?
ユイグは一筋縄ではいかないし、相当ひねくれていると思う。回顧展にあわせて作品を再提示するのも難しい。特に回顧展前の作品、dOCUMENTA13のカッセル郊外に展示された庭園《Untitled》は、美術館の中で展示できるような作品ではない。とはいえ、美術館の中にアクアリウムを構築したり、犬やミツバチを自由にさせたら、どのような空間になるのだろうか。
上記のリンクからLACMAの回顧展のページにジャンプできるけど、そのビデオで確認できるのは、先の庭園作品《Untitled》、《The Host and the Cloud》、《Ann Lee》、《Zoodram》など。ビデオは、ポンピドゥー・センターのクレジットが入っており、LACMA で実際に何が展示されたのかは分からない。
記事内のインタビューでは、次のようなテキストがある。
例えば、ピルカメラ(飲み込めるほど小さなカメラで内視鏡になる)を取り出して、次のように語る。「多分、私は彼にそれの一部になって、1つを飲み込むようにお願いしようと思います。」肩をすくめながら、「内側から俳優を描くというアイデアにずっと魅了されていることを説明しました。」
《無題(Human Mask)》も展示されるという。外見だけで成り立っている都市(ロサンゼルス)には面白い作品だと指摘している。下のリンクにある note でも考察しているけど、猿のウェイトレスのふくちゃんにインスピレーションを受けた作品(YouTubeで話題になったふくちゃんのビデオもリンクを貼ってある。そのビデオのコメント欄の批判もすごかった。。。)。
「この猿は自分がどんな役を演じているのかわからない役者のようなものです。時々、彼女は女性のように見えて、自分の爪に感心している。でも、動物のように足を上げると下着が見えてしまう」
幾通りもの解釈ができてしまう。震災の悲惨な記憶をフラッシュ・バックさせ、原発事故をどうしても意識の大部分に占拠されるような。人の居なくなった居酒屋で一人だけの猿、ドレスを着て。見る人のバックグランドによって、どのような振り幅もある作品、スペクタクルの社会を揶揄しているようでもあるし、鏡像段階をインスタンス化しているようでもある。
ユイグのアートは、映画、パフォーマンス、彫刻、人形劇、動物園、生物学研究室などの形をとっており、サルがドレスを着るのと同じように、美術館の回顧展という整然とした型に収められる。
ユイグは、1990年代半ばに二コラ・ブリオーの『関係性の美学』で取り上げられた。後期コンセプチュアル・アート(あまりこの言い方は見かけない)では、社会的相互作用と偶然性を重視する戦略を取り、作品そのものよりも、作品を制作するプロセスあるいはシステムが重視されるようになった。
鑑賞者の体験を高度にコントロールしようとする彼の作品は、常にこの運動の中では異質な存在であった。それはポストモダンの哲学に重きを置いていたのと同じように、そして恐ろしくもありましたが、ポップカルチャーに深く入り込み、特に後期マルクス主義的な傾向を持つアートにとっては、美しく詩的であり、かなり楽しいものでさえありました。
ユイグの作品を見る時、そこで体験した映像は、詩の世界をビジュアル化したような感覚がある。詩的という言葉では形容できない。よく意味が分からないが、何か惹きつけられ、繰り返し、繰り返し反射していく。
記憶を操作する。時間ベースのアーティストとは、映像作品などを中心に制作するアーティストの総称だと思うが、ユイグの場合、その操作する時間が過去と未来に及び、見る人の記憶が操作されるようである。
1999年に発表された彼の最も有名な作品《The Third Memory》では1972年にブルックリンの銀行強盗に失敗した事件をシドニー・ルメット監督が映画化した『Dog Day Afternoon』になった。ユイグ氏は、この映画のセットを再現したものを作り、映画の正確さを批判していたウォイトウィッツ氏にビデオ用に自分の話を再現してもらうように依頼した。しかし、実際に起こったことと、映画の中で彼を演じたアル・パチーノに「起こった」ことの記憶が、表裏一体となって新たな現実となっていたことが判明したのである。
この作品はグッゲンハイム美術館がコレクションしている。
ビデオ・アートは1990年代に出現した。日本のバブル崩壊に影響を受けたアート業界は、不況に見舞われていた。その不況期に、何か新しいことをやろう、そうして立ち上がったのが、ビデオ・アート市場である。リセッションのタイミングでは色々なチャンスが訪れる。
今現在の危機もチャンスに転換できるのではないだろうか。
コンセプチュアル・アートでは、作品そのものよりもコンテキストが重視されるようになった。そして、1990年代に入ると制作プロセスを含めたシステムとして作品を見なすようになった。ソル・ルウィットは「アイデアはアートを作る機械になる」という。ユイグは、どういった反応が得られるか、機械を使ってモノゴトを動かして、反応を観察している。
ユイグの作品制作にあたってはリサーチャーが活躍する。集められた研究データをユイグが読むとき、決して正確な読み方をしない。科学的な手続きを取りながら、主観に取り込み、作品として現出させる。そうした構造をとっている。
批評家たちは、ユイグ氏の情報に対するマニアックさは、それ自体が目的になりすぎているのではないかと不満を漏らすこともあった。
回顧展の話が上がったとき、適切に展覧会を実施できるのだろうかという思いがあったらしい。摩擦が好きなアーティスト、既に何があるのか分かっている状況は刺激が無いという。
彼が興味を持ち始めたのは、偶然にも美術館の中に紛れ込んだような、ある種の異物のような展覧会にしたいと思ったことだったという。「美術品はヒステリックなものです。視線を必要としている。私は、何となく物があなたに無関心に見えるような場所を作りたかったのです」と彼は言います。
dOCUMENTA 13の庭園の作品から犬、ミツバチ、植物をロサンゼルスに持っていく。アリやクモに加えて、アクアリウムの作品である《Zoodram》も。
このアクアリウムをユイグは「非幻想的なフィクション」と呼んでいる。「それは構築されたものであり、一定の状況が存在するが、その中で何が起こるかはコントロールできない」と彼は言う。
様々なパラメータを持つユイグ、この記事の3年後、2017年にパラメータを広げた。