『コンセプチャルアート』 読書メモ
正直、読むのが辛かった。読書のスピードは速い方だと思うのだけど、文章の書き方というか、言い方というか、持って回った書きまわしのように見えた。普段、よく読むのはビジネス書と技術書。結論は何?って観点で読んでいる。本書の難しさはゴールが見えないことなんだろうと推測する。
アートってロジカルに結論に導くものではない。ただし、議論はロジカルに行う。見かけ上は…?そうした対話、頭脳ゲーム、コンセプトとそれをテーマにした作品を解釈するために、読み込んでおくべき名著だと思う。
コンセプチュアル・アートとは、作品と鑑賞者とのコミュニケーションがポイントになるアート。従来からの絵画、彫刻とは違ったアプローチのアートである。
コンセプチュアル・アート以外の作品についても、鑑賞者との対話は存在していた。モナリザは誰なのか、ダビデ像は、なぜあれほどの大きさなのか、作品に関する鑑賞者の疑問や、問い掛けが発生することがある。ただし、それは鑑賞者が作品をアートと認識した上で成り立つものである。絵画、彫刻は、作品そのものがアートであると主張している。美術作品そのものに込められた技術、作品が創り出すモチーフ。それだけで美術として成立していたもの。作品の中にアートがある。
コンセプチュアル・アートは、まずは鑑賞者がアートであることを認め、その上で、アーティストからの問い掛けに対して、鑑賞者が応える必要がある。ゲームに参加する必要がある新たなルールが存在するのである。
コンセプチュアル・アートの発生にとってキュビスムが重要な役割を果たした。
(1)レディメイドの先触れとして日常的なイメージや事物を導入した。
(2)表象、知っていることをいかにして知るかについての探求に取り組んだ。
(3)鑑賞者の期待の裏をかく。あるいは撹乱する。
(4)街中の生活とスタジオの密室的な生活の融合を目論んだ。
こうした作品との対話を取り出したのが、コンセプチュアル・アートと呼ばれる。概念のアート、その概念を鑑賞者と共有し、対話が成立する。
60年代のベトナム戦争、その社会情勢を反映したかのようなアートの活動、社会から出て、社会に対して問いを投げかける。アメリカ的な民主主義、資本主義のグローバル化とその行き詰まり。アーティストが疑問に感じたこと、憤慨したこと、そうしたものは誰にでも存在しており、それを引き出すようなきっかけ、そうしたものを作品として問いかける。圧の強い作品であれば、視た者を串刺しにするかのような衝撃を与え、深慮に陥れる。
このような問いかけは、アートが様々なモノに接続する契機となった。社会的なモノ、現象、経済発展、そうしたものをメディアと見立てていたように見える。
体制、社会批判、権威への抵抗、そうしたニュアンスのあったコンセプチュアル・アート。しかしながら、コンセプチュアル・アートの作品に破格の値段が付くことになった。ここでも資本主義が侵食してきた。
こうした経済的価値の獲得は背景にあった思想的な魅力が失われてしまうような、発生した当時の勢いがかげってきた。問いを発し、対話をすることだったが、お金の影がチラチラと見えるようになった。
当初、(今現在もそうかもしれない)現代アートとコンセプチュアル・アートの関係が分からなかった。ゼミ同級生から、彼の作品はコンセプチュアル・アートではないけれど、作品はコンセプチュアルであるという。『美術の物語』に接続するのがコンセプチュアル・アートだと思っていたけれど、複数の枝分かれがあって、それぞれが交差しているようだ。
この本も国内絶版になっていて、価格が上がっていたので、相対的に安価な英語版を入手する。Kindleリクエスト出しておいたけれど、美大生は教科書代も大変だな、なんて思った。