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リヒターの衝撃
やはり、ゲルハルト・リヒターは凄かった。衝撃にしばらく身動きできなかった。
カミーユ・アンロの流れから恵比寿にやってきた。K先輩が見たというゲルハルト・リヒターを見たかった。東京都写真美術館で開催している『イメージの洞窟』を見るのが目的。といっても、美術館に到着するまで、ゲルハルト・リヒターの作品が、どの展覧会に展示されているのかを知らなかった...。
現代アート、写真こそ気になるところ。どうやったら写真がアートになるのか、しかも現代アートになるのか。写真というと夏にロバート・フランクを見に行った。
イメージの洞窟に戻る。
グループ展、何人かの作家が展示室毎に展示されている。全体の印象としてはこじんまりとした感じ。
展覧会のタイトルの通り洞窟内で、高感度で撮影した写真作品、本来は見えないものを照らし出す。赤ちゃんの写真、人の体温を映し出すだったかな。
そうした展示をくぐり抜けて、フィオナ・タンの映像作品。15分くらいの上映時間。あいちトリエンナーレ鑑賞の反省から、映像作品も全て見ることにしている。
この映像作品は初めて見る映像なのだけど、どこか懐かしさを感じた。船が航海している様子を船長室から見ている。荒れた海。僕は航海の経験もクルーズの経験もそれほどないのだけど、船首が波を切って進む映像は、自分の経験として持っている。経験だけでなく、映画などで見た映像も記憶の中ではごっちゃになると思う。
画面は白黒映像、赤のモノトーン映像と変化する。記憶の中の景色は、えてしてモノトーンだよね、なんて思いながら、半分寝転がりつつ映像作品に没入した。
写真とは、記憶の引き出しに触れるものなのだろうか。
懐かしさという感情が発生したのは記憶を辿って船に乗った経験を引き出したものと思われる。
最後の展示室。
いよいよリヒターの作品である。
《26.6.2016(1)》この作品は入江のような景色に、油彩で虹のようなオーロラのようなものを描き込んだ作品である。油彩によって隠されている景色を伺うのか、あるいは油彩を見る中に、たまたま景色があるのか。しばし見入ってしまう。
記憶から無理矢理見させられている。記憶から引きずり出された景色。
人の目は便利で、知っているものは目に入っても見ない。こうした働きを試すかのような作品。しばらく作品の前で呆然と立ち尽くした。
視覚から入ってくる刺激によって、記憶から視覚に逆流しているかのような感覚、これが衝撃の正体だと思う。見ているモノから知っているものを認識するのではなく、知っているモノから見せられているというような違和感とも取れる錯覚を感じることにより、見るとはどういうことかを突きつけられたように思う。運動の際に、自分の体の動きをビデオで提示されるとよく分かるけれども、脳の働きをビデオで提示されたかのような。
光の矢で射抜かれたような衝撃だった。
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