魂がふるえる
塩田千春展。
会期が終わる間近に滑り込みで出かけてきた。チケットを購入するまでに1時間待ち、バスキア展も一緒に見ようと思っていたのだけど、時間的な制約とアートを感じる僕のキャパシティから、別の日にしよう。早々と心に決めた。
本来、アートを学ぶ身としては、展覧会に出かける前にアーティスト研究をしておくべきであり、作品についても予習しておくべきだと思う。そうなんだけど、無手で出かけることにしている。作品に関する新鮮な感覚を得たいということが一番の理由だから。
旅行などの計画を立てるときに、かなり詳細に計画したことがあった。実際の旅行をした際に、計画の消化が追体験のようになり、こなしている感があった。
これってつまらないよね。
そんなことから、無手で出かけることにしている。その代わりに帰ってきてから思い切り復習するけど...。
パンフレットにも掲載されている赤の糸の部屋が人気。
糸をかけて、そのうち面が現れてきて、糸が空間を形成すると完成する。そんな風な説明を読んだ。
関係性を感じた。糸はたわまずに、まっすぐ張られていて、それって誰かと誰かの関係を表しているのじゃないか。他の展示室にあった親戚の写真の膨大さ。いろいろな関係、それも一人に一本ではなくて、複数本、その時々の関係が糸となって紡がれているような、そんな感覚があった。
油絵を描いていたけれども、技術に依ってしまい、描けなくなった。そこからの苦悩の日々、堂々巡りな感じ。土への接続。
どことなくボルタンスキーを連想してしまうのはなぜだろうか。
不幸と反復と脱個性というところなのかな。共通性を見出したのは。
ボルタンスキーは、神話になると主張していた。
塩田千春は、宗教を作りたいのではないかと思った。魂をテーマにしていることと、東洋的な発想が、そう感じさせたのかもしれない。
土から体への接続、体を巡る血管は赤い糸。体を覆う服。更に自分を囲む建物。
赤い糸は血管、体、肉のイメージ
黒い糸は精神、記憶、魂と土あるいは対象物との接続のイメージ
そこが、段々と交錯していく。そして、自分に戻る。
油絵が描けなくなった。技術と表現の対立。アーティストの中から溢れるものを表現する際に、技術に頼っては、それは技術を提示することになる。手技で表現する際には、そうしたことが起こる。それを超越するひとつの形が、この展示なのだろうと思った。
最後、魂(ゼーレ)とは何?という質問をドイツの小学生に投げかける。なんとも捉えどころの無い質問ながらも、一生懸命に説明する子供達のビデオ作品が、アートワールドから、現実世界に帰ってくる儀式のようにも感じられた。
鑑賞後、近所のインド料理店でビリヤニを食べたら、とてつもなく辛い唐辛子がまるごと入っていたのに気がつかず、そのまま噛んでしまった。死ぬかと思った。
毒を飲んで死ぬときは、こんな感覚なのだろうか。生還したときに、ほっとしたのと、日常から遠ざかった感覚と不思議な体験をした。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、辛さで喉が腫れて、息ができなくなって、汗だくになり、呼吸があらくなった。お冷に入っている氷を口に含んで凌いだ。本当に死ぬかと思った。