アート漬け 物量という学習方法
某テレビ局で番組制作をしているゼミの同級生。彼女のお世話になっているというアーティストの個展があった。
ストライプハウスギャラリーで開催していた小堀令子展。
残念ながら、愛知県のグループ展の準備だったかで、アーティストは不在、他に人はおらず、貸切状態で鑑賞することができた。
壁面を覆う大型の作品、包み込まれているよう。
ネットワークと表現される。見ているうちに引き込まれてしまう。作品の大きさという圧。
同級生の説明によると、このペイントはベースに風景画がある。そこにネットあるいはデジタルで見えなくなる世界を表現しているという。
この下に風景画あるのか。まじまじと凝視してみたけれど、もはや形跡は認められなかった。
小さな作品もあり、販売済みを示す目印がついていた。プライスリストは要求しないと出てこなさそうなんだけど、見たら買いたくなるかもしれない。このアーティストの作品は、大型作品にこそ価値があると思うから、小作品を買うのは違うだろうと思った。
包みこまれるような空間を堪能した。
2件目のギャラリーは、WAKO WORKS OF ART。グレゴール・シュナイダーを見にいく。
映像作品を中心とした展示がされていた。床にポツンと置かれたUSBメモリとか、グレゴール・シュナイダーの世界観。異界の雰囲気が出ている。
映像作品は、ナチス・ドイツの国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが実際に暮らした家での作品。
暗い部屋の中、四面に映像作品が投影されている。部屋の中を丹念に映し出す映像、家の内装を壊す映像、ベッドで寝ているだけの映像。
そして、展覧会のタイトルにもなっているスープを飲み干す。エディションもので、この作品が一番売れていた。
この映像作品を見ていると、アーティストの苛立ち、やるせなさが伝わってくるよう。それは、ベッドで寝ている映像、家の中をくまなく探索するかのような映像、そうした映像と合わさってこそ、去来する感情のように思う。
とても不思議な感覚を抱えた。この後にバスキア展に出かけたこともあり、あまりバスキアが入ってこなかった。
この日バスキアを見た後、カミーユ・アンロを見に行こうと思っていたけれど、土砂降りと解釈のキャパシティの限界を感じたため、帰ろうと思った。
ペロタン東京で、エミリー・メイ・スミスの個展を開催している。
ゼミで女性アーティストとフェミニズムを研究している同級生がある。彼女からの指令で、ペロタン東京の展覧会はマストであると指令がくる。
このギャラリー、表から展示が見えるので見たつもりになっていた。でも、マストと言われれば見ておくべきだろう。もう、脱力しているしね。
鑑賞直後。やはり、直接対峙するべきだと思った。
ギャラリーの外からガラス越しに見たら、そりゃ見たうちに入らない。絵画は数秒で鑑賞を終えることができる。反面、半日だって見続けることもできる。実際に作品に対峙するという行為、アートの洗礼というか、そうしたものを忘れていた。
じっくりと見る。女性アーティストの主張するフェミニズム、ジェンダーの違いによる気まずさを感じる。
そのことを同級生に投げかけてみると、そうした居心地の悪さというのが、男女の見る目、バックグラウンドによる違いによって変わってくるところに興味があるという。
ゴールデンウィークあたりにも展覧会をいくつか巡ってみたけれど、その頃から比べると明らかにアートを見る目が変わったように思う。まだまだ、ひたすらアート漬けにならなければと思う。
ともかく、現代アートを学ぶための準備が効いている。