MOMAのテキスト「What NFTs Mean for Contemporary Art」を読んで思ったこと
NFT が注目されて久しい。作品に限らず、売り方、どんな作品が売れたのか、アートをNFTのコンテキストに持ち込んだときにどんな影響、反応、変化を受けるのか、NFTの技術的観点そのものについて、様々に議論があり、いろいろなテキストがある。そんな大量のテキストの中から、MOMA の『What NFTs Mean for Contemporary Art』が目についた。
冒頭のリードから、アーティストとキュレーターの対話のテキストであると分かる。BeepleそしてNFTがどのようなものかという点を整理している。
Seth Priceのポートフォリオページ
Michelle Kuo の紹介ページ
NFTはノン・ファンジブル・トークンの略で非代替性トークンと訳される。非代替ということは代わりがない唯一性を示し、ユニーク(一意)であることを表している。コンピュータ・ネットワークの中で表現されたデジタル・データは、容易にコピーできるし、拡散することができる。誰かが作り出したデジタル・データは、データに内包された署名でしか主張することができない。そして、ネット上に放たれたデータを誰が所有するのかという点について議論はあまりされていなかったように思う。データをホストしているサーバーの所有者が、必然的にデータも所有しているとみなされているように思う。
NFTは、そうした曖昧なデジタル・データの所有権を成文化できる仕組み、技術的にも、権利関係的にも、商習慣的にも一石を投じるのは間違いない。
所有権をデジタル(ブロックチェーン)で成文化することができる。誰かが所有しているデータであると宣言するものである。オリジナルという概念が無いサイバー空間で、ひとつのコピーが所有権という形で何者かにアンカーされる。
空に署名し、その作品(行為)を所有することができる可能性がある。虚実のように見えるが、デジタルデータの所有権とは、そんな風にみることができるのではないか。
デジタル・データの所有権(NFT)を取得するために6,930万ドルの値がついた《Everydays: The First 5,000 Days》は、アート・ワールドに大きなインパクトを与えた。
批評するツールが、まだ整えられていない。その一方でNFT は投機的な動きをアート・ワールドに呼び込むことになるだろうという心配もある。投資の相談は証券会社の窓口からWebへ、そしてスマホになった。
Seth Priceは、Beeple の Everydays のコーヒー・テーブル・ブックが発売されたらすぐに買うと主張している。これにMichelle Kuo も同意している。最悪だけど、いい本になる。と。
Beeple は Cinema 4Dを使っている。
これは3D CGやアニメーションを作るための高機能ソフトウェア(シミュレーションや、レンダリングには相当量のコンピュータ・パワーを使う)で、このソフトウェアを使って静止画を作っている。明らかな誤用をしているとSeth Priceは指摘する。新たなメディウムが登場した時のアヴァンギャルドな方法としての誤用。
Beeple のアートワークは非常に高い解像度であり、高精細である。そのこともBeepleのアートワークの価値付けに貢献しているが、《Everydays: The First 5,000 Days》を購入したVignesh Sundaresan(通称MetaKovan)は、そうした技術に対して価値を見出したのではなく、この作品に費やした膨大な時間を評価したという。
これは deskilling である。
このBeepleのアートワークの場合、芸術作品の制作から技術的な熟練度を意図的に取り除き、熟練度や権力の構造をそもそも疑うこととしている。
Beeple は、他人が作ったCGを購入し、それを追加している。Seth Priceは、これをコラージュと指摘した。他人の成果を取り込むことで、人々の労働を表現している。MetaKovan は、それを資本蓄積と見做しているのだろうと。
別のテキストになるが、MetaKovan のインタビューを読んだ。13年間という時間を、この作品の価値として認めた。落札金額を支払うのは負担としながらも、MetaKovanも13年前は、このような大金は持っていなかった。そこに重ねた時間こそが価値だったのだろう。
MetaKovan はパトロンという言葉を使った。
ブロックチェーンが秘めていた可能性に対する過度な期待に見えなくもないが、こうした熱量は、何かを変える原動力になるだろう。
NFT についてアート・ワールドに関わる人は知っておく必要がある。作品を作るアーティスト、作品を買うコレクター、そうした取引を扱うディーラーあるいはギャラリスト、全てのステークホルダーに関係する。
NFTは単なる契約である。
NFT はブロックチェーン上に、誰が何を所有するかを記録する。"何を"の部分は、作品のURLを指していることが多い。というのも、大抵の場合は、ブロックチェーンのブロックに納められるほど、イメージのサイズは小さくない。
至極単純化した言い方をすると、誰もが参照できる台帳に、所有者と所有物が記録されているということ。例えば日本の土地・建物は、法務局に行けば誰が所有しているのか、どういった来歴なのかが記載された証明書を取得することができるが、こうしたものがブロックチェーン上に保管されており、誰でもが参照できる状態になっているということ。ただし、技術的なリテラシーは必要になる。
NFT で取引されるアート作品がイメージ主体というのは、誰もが理解しやすいから、それがデジタルイメージの場合、なおさらNFT である必然性を感じられる。このテキストでは、NFT は PDF への署名問題の解決と比喩されているが、適切な表現だと思う。
Michelle Kuo は、契約、数学的特異点、JPEG、GIFなどの組み合わせとして総括し、Seth Priceのエッセイに言及している。そのエッセイは作品が分散や複製によって、その作品の価値がゼロに近づいていくということが書かれているという。しかし、その逆転が起こっており、アクセス性が高いほど、価値も高くなっていく。
ピエール・ユイグは、彼のビデオ・アート作品に対して、映像作品のエディションはフェイクだと言っている。いくつかのエディションをコレクターや美術館が購入したとしても、アーティストのハードディスクの中には、完全な形での映像作品が残っている。
また、アンリーのプロジェクトは様々なアーティストが参加したプロジェクトであり、そのプロジェクトが作ったコンテキストは、展覧会そのものがコレクション(アーカイブする価値のあるもの)するべきものと認識されるに至った。そうして美術館とコレクターがエディションを保有している。
この展覧会の作品の一部は、微妙な違いを持ったエディションとして派生し、様々な場所へ増殖している。例えば、表参道のGYREでピエール・ユイグの《100万年王国》(2001)が提示されたが、これは前述のプロジェクトに含まれていた。
NFT は、こうしたことを表現する道筋を見つけるテクノロジーなのかもしれない。プロブナンスをオープンな形で記録すること。
Seth Priceは、20年前の彼のエッセイが指摘されたことを受け、物質と非物質の伝統的な関係の崩壊に対処しなければならないと応答している。新しい時代が到来した。物質的な生活と非物質的な生活との間の緊張関係、その影響によって抽象化が進む傾向にあるとみている。
インターネット、とりわけ随時ネットに接続できるようになったスマホの出現は大きい。僕の本業の情報処理産業では、スマホをツールとして活用することを提案していたが、これほど社会に普及するとは思わなかった。こうしたガジェットを使うのは、一部のギークか、情報産業の口車に乗せられた経営者の居る事業会社の従業員と相場は決まっていたが、ここまで一般的に、生活や精神にまで浸透するとは思いもよらなかった。ソーシャルメディアが伸長したのは必然だろうし、共依存だと考える。
ネットの空間は、もはや自己の領域の一部であり、物質的な領域と非物質的な領域を同時に生きることである。デジタル・ツインというと、何か煙に巻かれたような感じがするが、自己の存在としてサイバー空間との境界はなくなってしまった。
既に金融業界は仮想空間にまで領域を広げているはずだが、日本の金融機関は、物質的なしがらみから逃れられていないように思う。
日経ビジネスにNFTはバブルと表現された。
このような見方は間違いではないけれど、これだけを注目すると見誤る。
NFTは所有権の再定義を問いかけている。
今日、音楽を所有することがどういうことか。レコード(カセットテープでも、CDでも、媒体は何でもかまわない)を買うことが音楽を買うということだったが、最早ストリーミングで音楽を聴いている。ソフトウェアも買い切りのモデルからサブスクリプション・モデルへと移行した。
僕は本業でも副業でも、ビジネスモデル創造のワークショップを行うことがある。そのワークショップの冒頭ピッチには、世界最大のメディアであるFacebookは、自身でコンテンツを作っていないと説明している。
NFT は、そうしたことを個人の手に取り戻す役割を果たす。
シリコンリバタリアン、大手ネットサービス企業によって奪われた権利を自分の手に取り戻すということ。GDPRのようなプライバシーと個人情報を保護する規則とは違ったアプローチに見える。Googleが個人の行動や嗜好の把握のためにクッキーを利用しているが、そうしたことにNoを言うということ。Appleは、この時流を感じ取り、新たな擁護者としての地位を獲得しようとしている。Facebookはこれに反発している。その間隙を縫って、Amazonが躍進している。マネタイズにおいて、消費者と直接エンゲージメントしているかどうかが、キーになった。
権利を取り戻す。自由である。よいことのように見えるが、自由であるということは無秩序さを呼び込む。暗号資産を格納しているウォレット(ビットコイン用の財布)に、誰が手を突っ込んできても、それを訴えることは難しいし、暗号資産が破綻したとしても銀行のような救済措置はない。もっとありそうな例で言えば、ウォレットにログインするパスワードを忘れてしまったら、永久に資産が失われる。自分自身で防衛する。何もかもが自由ということになるが、そうした自由を手に入れるには、技術的なハードルは高い。
アイデンティティは、以前は特徴的な筆触を持つ署名、印鑑、紋章、スタンプなど視覚的に識別するものであったが、それがアルゴリズムや暗号技術を用いたものに変わった。そうしたアイデンティティの表面の変化の象徴がNFTだという。
そして、NFT は、初期のコンセプチュアル・アートの流通のためにやろうとしていたことを実現することができるようになったとしている。
このことはStartbahnなどが、既に2019年から取り組んでいたこと。この一社に限らないし、この当時は契約や技術的な観点ばかりだった。このアーティストとキュレーターの対話のようなコンセプチュアル・アートへの接続は無く、作品と来歴の証明書としての表明のみだった。
NFT の透明性について言及が続く。秘密主義のアート・マーケットにおいてNFTは履歴が残り、誰でもが閲覧でき、永久に保管される。アート・マーケットにはグレーな取引もあり、マネー・ロンダリングにも使われている。この流れは、そうしたことに対する皮肉と言及している。実際のところは、そこまで単純じゃあない。
こうした所有権の販売モデルの実験は、NFT に始まったことではない。この対話でも、ティノ・セーガルが引き合いに出されている。彼の作品販売は、公的な第三者の立ち合いのもと口頭で行われる。
スマートコントラクトによって取引が自動化され、透明化される。将来は、ギャラリーの役割をプログラマが担うかもしれない。
ただし、長年ソフトウェア産業に携わってきた身からすると、いささかユートピア的な見方であることは否定できない。理想と目的、設計コンセプト、仕様と実際のコードである実装(プログラムやアーキテクチャ)は、ずれるものだし、人のプログラマが関わる以上はバグは入る。バグはプログラムに限定されず、設計や仕様にも及ぶ。新しいイノベーションのための仕様変更によって、今までのブロックと互換性が取れなくなることがある。(ブロックチェーンの場合はハードフォークと呼んでいる。)ソフトウェアが産業化し、学術的な部分と共に歩んできた半世紀ほど、その出現当初から、こうしたユートピアと現実とを行き来しているように思う。
NFT は、インターネットに溢れるミーム、本来は所有できないものを所有することができるようにする技術であり、仕組みである。極めてファッション的な感じがする。
Seth Priceは、Beeple の作品から、抽象化の進行、疎外された自己、物質と非物質の行き来という点を読み取り、そこに興味を示している。そうして表された作品をNFTという契約で販売した。そして、NFT の本質は、一体何が起こっているのかを誰も理解していないということだと指摘する。
スマートコントラクトを開発できる一部のエンジニア、そうしたエンジニアの言葉を理解するのは難儀だろう。あるいは暗号技術を駆使する数学者、イーサリアムでどのように開発するかを知っている人は世界に200人くらいと指摘している。これが投資家のマインドセットを可能にするという。理解すればいいのはマージンは何%かということ。
Beeple が手にした大金は、すぐに法定通貨に変えられた。(現在の暗号資産の値崩れを見れば、いいタイミングでの売り抜けかもしれない。)これには暗号資産界隈の人から、価値を暗号空間に持ち続けるようにというコメントがあったらしい。
この後の二人の対話は、アートにある早期警戒システムのような働きから、NFT がアートにとってどのようなものなのか、暗号資産をアートは表現できているのかという議論に続くが、NFT に限らず、そうした議論は尽きることが無い。逆の見方をすれば、そうしたことを再認識するきっかけを提供してくれたのかもしれない。
NFT だから高くなるのではなく、NFT で取引されるから高くなる道を見つけた。そうしたアートが発見されたのではないだろうか。暗号資産の崩壊が注目され、NFT 市場も落ち着きを見せているが、もはやNFTでの取引が無くなることはないだろう。