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『BODY BUDDY BABY』の高橋 順平の展示

京都芸術センターで開催されていたグループ展『BODY BUDDY BABY』を見た。高橋 順平さんの作品について、いろいろと考えた。

壁際に段ボール箱が積まれ、映像作品が投影され、その前を天井に設置されたレールに従って回る人型、重ねられたパレットとゴミ箱から構成されたインスタレーション、ペットボトルが覗くゴミ箱からは音が聞こえる。

展示風景, ©高橋 順平

天井のレール、そこに吊り下げられた人のようなもの、点滴が取り付けられ、滴り落ちる液体は引きずったズボンをつたって床にドローイングを描いている。段ボール箱は新品だが、無造作に積まれている。

展示風景, ©高橋 順平

顔がなく、レールによって同じ場所を回るしかない人型は主体性を奪われたアーティスト自身の姿を投影しているように見える。

当初はこれが何かが分からなかった。それは「何だこれは?」という感覚とは違う。何か主張がありそうだが、それが何なのかが分からない、お互いに第二外国語でコミュニケーションをしているかのような遠さ、あるいは煩わしさがあった。

ステートメントを読むと、労働の代替可能性について書かれていた。大型倉庫でバイトしていた。流す汗と労働、それは自分の体であるが、バイトとしての体は自分の自由にはならない。

そのステートメントから作品を反芻すると、マイクロポップ的な主張が立ち上がる。

労働による日々の糧を得る行為と、その労働が代替可能であるということ、そこから主体としての自身が奪われているかのような具合、それを表明するための作品であるとするならば、極々狭い界隈での事象をインスタレーションとして展開している。それが大げさという訳ではない。審美的な強度を持ちつつも「だから何?」という疑問も湧き立つ、すなわち世代間の認知の違いをも前景化させているようにも思える。

そこには脆弱さもある。世代間の分かり合えなさをそのままに作品にしたのであれば、その分からなさと分かりみを、どこかで落とし込まないといけない。偶発的な腹落ちを期待しているとしたら、若い世代の「わかってもらえない」という思春期的な衝動として切り捨てられてしまう危うさを持つ。とはいえこの作品は、資本主義の土台にある私的所有についての問題にまで切り込むことができる。そうした議論を「だから何?」という感想を超えて(あるいは踏まえて)議論するための出発点になる可能性を持っている。

グループ展であり、他の作品についてもマイクロポップとして解釈すると腹落ちする。マイクロポップは既に終わったと言われる向きもあるが、ポスト・マイクロポップとも言えるようなうねりがあるように思えてならない。


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Tsutomu Saito
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