土砂降りの中、バスキアを
塩田千春展と連チャンしようと思っていたのだけど諦めた。ゼミでも話題になっていたし、日を改めて鑑賞にきた。土砂降りの六本木...。
前回の塩田千春展の note にも書いたのだけど、展覧会に参加する際に無手で行く。バスキア展では失敗だった。アートのお値段に少し登場していたけれど、夭逝したこと、思い悩んでいたこと、ストリート出身くらいの認識だった。もう少し、背景とか、きちんと予習しておけばよかった。
ニューヨーク出身の英会話講師、彼はバスキアのファンであり、英会話レッスンを始める前にバスキアについて語ることもしばしばあった。ただ、英語でアートの説明とか、解釈とか、相当むつかしいね。
たくさんの作品が展示されている。中でもノートの展示は、物量の多さもそうだったけれど、詩の世界、一行しかない紙面。その余白が、むしろアーティストの主張を語りかけていたような感じもする。
王冠のコラージュと真っ黒で目と口だけが認識できる顔。
ゼミでグラフィティ・アートを研究対象にしている同級生、彼女は、バスキアの余白が素晴らしいと言う。夭逝したが、もっと成熟したバスキアの作品を見てみたいと話していた。
スカルと内臓、人物に服を描くのではなく内臓を描く。これは、肌の色の差別に対する抵抗というか、表明ではないかなと解釈した。不平等への挑戦。
アンディ・ウォーホルとの出会い、交流、彼の死が影響を与えたバスキアの死。
大型の作品。言葉、絵、ペイント。苦悩が伝わってくるようなんだけど、真意はわからない。
タギングあるいはシグネチャー。
バスキアの年代を考えると、グラフィティの元祖に近い存在なのかなと思うけど、この謎というか、分からなさが、かっこよさに繋がっていくのでしょうね。全部を語りつくさない。そこに解釈の幅がある。
青は藍より出でて藍より青し
現代のストリートアーティストは、バスキアを参照し、タギングなり、シグネチャーなりをアップデートしているようにも思えた。
K先輩は貸し出しレシーバーの吉岡里帆のアナウンスがダメだったみたい。そしたら、イヤホン外しとけばいいのに、と思ったけれども、それは胸の中に、そっとしまっておいた。
「彼女は台本読んでるだけですよ。」とだけ、つぶやいた。
土砂降りの中、この日は、他にギャラリー3軒のハシゴをした。