スーパーオーガ二ズムとトポロジー 岡山芸術交流 2019
岡山芸術交流2019。これは思考整理のためのnote。
日程を調整して訪問しておいてよかった。しかも、ゆっくりと時間を取ったこともよかった点だと思う。
スーパーオーガ二ズム
超個体。各個体よりも群としてのコミュニティあるいは集合体が生命体としての全体を尊重する。個体が集まった集団をひとつの個体と見做すこともできる。そんなイメージのある言葉。
organisation とすると組織、organismで有機体。有機組織とも捉えられるから、同じ語を使っているものと推測する。そもそもヒトの身体には多種多様な細胞、細菌が共生している。それが個体を形成しているにも関わらず、個体が集まると、うまくいかないことが多い。もちろん、現在の隔離生活を考えると、個体だけではうまくいかない。ヒトは社会性を持っている。
岡山市内各所を舞台に開催される芸術祭「岡山芸術交流2019」。2016年に続く第2回となる今回は、アーティストのピエール・ユイグをアーティスティックディレクターに迎え、「超個体(スーパーオーガニズム)」というテーマのもと、アーティスト同士、作品同士が関係しあう展覧会が試みられた。「IF THE SNAKE もし蛇が」という意味深なタイトルが冠せられた本展のコンセプトと展示の実践について、石谷治寛が論じる。
エコシステムとトポロジー。超個体、エコシステムを考える。いや、エコシステムとして超個体を捉えるのは、やや矮小な捉え方のような感じがする。それぞれが独立しながらも、協調してひとつとなる。それがエコシステムとなるのか、生命の循環だろうか。
トポロジー、空間的な位相関係という。情報システムの仕事をしていると、よくトポロジーの話をする。ネットワーク・トポロジーとか、システム・トポロジーとか。これは物理的な構成と、論理的な構成とで示すことがある。コンピュータ・プログラム、情報システムの場合、目に見えるものと見えないものとがある。多くの人で仕事を共有するから、そうしたものを言語化しなくてはならない。そうした言語化の一部が、ネットワーク・トポロジー図だったり、システム・トポロジー図だったりする。
岡山で見たのは、境界があいまいになった作品の提示、作品のある場所と視界に入る範囲、作品展示の範囲と思考の範囲、そうしたものが交錯し、油断していると、通り過ぎてしまうような。脳内をハックされているような、不思議な感覚である。
ひとつひとつの作品に向き合うという見方、複数の作品を視界に入れつつも、視点を変更するという見方。計算されているわけではなく、このように配置したら、鑑賞者は、どの視点で、どこの視点を見るのだろうか。
コンセプトの核となる会場は旧内山下小学校。そこから外縁の展示空間へと超個体の環世界が広げられる。
環世界。
Umwelt、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの著作のタイトル。廃校になった小学校の中にあるインスタレーション、映像作品。《反転資本(1971〜4936年)、無人、シーズン2、エピソード2》、どこまでが作品なのか、インスタレーションは、映像作品の中にでてくる。そうしたものを見た後で映像作品の中で見るとは、なんとも不思議な感覚。そしてニクソン大統領のフェイク・ニュース。
校庭に設置された大型LEDディスプレイ、ピエール・ユイグの《タイトル未定》という作品。
このユイグの作品は、イメージを見せられて連想中の被験者の脳内活動をfMRIでスキャンして、ディープラーニングによって再構成したイメージを素材にしているのだ。
この大型LEDに映写されているのは京都大学、神谷研究室の実験映像。被験者に図形なり画像なりのイメージを見せたときに、fMRIによって反応した脳の部位を確認、その部位をディープ・ラーニングで学習する。つまり、脳の反応した部位から、映像を再現する試みである。脳の反応から何を見ているか(認識しているか)の再現は、他人の夢を映像化する試み。
石谷治寛氏の美術手帖のテキストは、彼自身が体験した岡山芸術交流を綴っている。鑑賞者の数だけ、物語があっただろう。このテキストから、2014年のプロジェクトとの接続性、その着眼点を学んだ。
時間、反復、接続性。
共生や、エコシステムへの接続、回遊するということと、順番を持たないこと。人間の認識とその他の認識。所詮、理解したと思うのは妄想であるのか。妄想であることを出発点として考えさせることが目的なのか。
生命
人工生命という研究分野もある。また、現在、ノヴァセンへの移行期間ではないかという見方もある。
アーティスティック・ディレクターとしてのピエール・ユイグが顕した岡山芸術交流2019、アーティストが交流し、生命とは何かという問いかけを問いかける芸術祭だった。鑑賞者それぞれの解釈、物語ができていく。
岡山芸術交流を考える際に、那須太郎氏のことも考えなくてはならない。
コンセプチュアル・アート、反体制的な部分から始まったとされるが、そういうわけではないと主張するアーティストもあった。その当時に、なぜそうしたムーブメントがあったのかは、正確なところは分からない。ただ、コンセプチュアル・アートを契機として、アートの境界が溶けてしまったことは間違いない。外側と内側が無くなった。
コンセプチュアル・アートを専門に扱うギャラリー、コマーシャル的にはどうなのか。
那須:ないですよね。絵の方が、確実によく売れるからね(笑)。実際、僕自身もコンセプチュアル・アートには分類されない作品も大好きだったし、画廊で扱ってもいました。
棟田:アートを資産ポートフォリオに組み込むようなライトな富裕層は増えてきましたが、コンセプチュアル・アートの購入には、依然としてハードルの高さを感じます。
やはり、コンセプチュアル・アートの購入はハードルがあるらしい。香港のアートフェアでも売買できるのか確認があるほど。ティノ・セーガルの作品の売買に至っては、口頭伝承という。
今、時代が、物よりコトの消費に関心を向けていたり、情報というものの価格と価値が取り沙汰されることが日常的になっていますよね、そう考えると、コンセプチュアル・アートに現実のほうが追いついてきているような気分にもなります。
美術品から概念へ、展覧会が意味を持ち始め、作品は鑑賞者とのコラボレーションになった。それはリニアに発生したわけではなく、時代の緩やかな変化にあわせた要請だっただろう。
いまは、ゴドフリーのコンセプチュアル・アートとリオタールの言う非物質化は別のものだと解釈している。
こうした作品が、マーケット的な価値を生成していく過程。それはアーティスト、買う人、売る人があって成立していく。ゴドフリー、リパードのテキストでは、それに値段が付くと考えていた人は居なかった。3年もすると、価格がつけられ、取引されるようになる。
今後の岡山芸術交流。
棟田:石川さんとの縁の延長線上に、岡山芸術交流があるわけですが、どのようなモチベーションで関わっておられますか?
那須:1つは、乱立している国際展への問題提起です。アートにはエンタテインメントの要素もありますが、いわゆるエンタメではありません。にもかかわらず大衆化のためにエンタテインメント化されたアートとは呼べないものが溢れかえっている。そんな中で「それはアートではないよ」と示すにはアンチテーゼとしての国際芸術展が必要だと思いました。
さて、次回の岡山芸術交流は開催されるのだろうか。ドクメンタを見て、こうしたものを岡山に定着させたいという夢があった。石川康晴氏は、総合プロデューサーを続けることは難しいだろうと考えられるけど、順当にいけば2022年に開催、準備は2021年から開始になると思うけれど、コロナ禍による影響もあるだろうし、プロデューサーをどうするかという表明が難しそう。
いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。