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フィールドワーク 世界の教科書としての現代アート @ 東京都美術館 鑑賞メモ

2020年2月、東京都美術館で開催していた京都造形芸術大学の展覧会、フィールドワーク。現代アートを教科書として捉えての展示。

森美館長の片岡真美をキュレーターとして迎えた学生作品の展覧会。卒業展ではない。学部3年生も作品を展示している。


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ポスターにも掲載されている作品。大漁旗を細く裂いて編み込み、帽子のような形を作っている。先に展示室に入っていた人が、下をのぞき込んでいた。吊られているのか確認していたものと思う。僕もつられて、下をのぞき込んでしまった。

大漁旗そのものに様々なメッセージが込められる。豊漁祈願、安全祈願、そうした祈りを縒って作り上げたイメージ。このオブジェクトは合掌を表しているという。大漁を望む旗から、復興のシンボルとしての旗。

この作品を提示した学生は福島県出身、震災当時は中学生という。今回の展覧会、フィールドワークにあたって、もう一度、故郷の福島県を巡って、復興への思いを作品としたということ。美術の持つ力。


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江守一郎『機械のはなし』を引用したステートメントが面白かった。

昔は機械のご機嫌を取りながら、調整し、機械を操作できるように人間を訓練しちえた。そうして、なんとか動かしていた。現代は、AIが人間の能力に応じて動作する。人の側に寄ってきて、勝手に調整してくれる。人と機械の逆転が起こったということ。

展示されている作品は、人間にしかできない操作、意味のないこと、それを探求したいという。アクリルを使った意味の無い機械。構想メモと、それを実現した機械というか装置を提示している。

アーティストと話をしてみると、意味の無い機械を作りたかったという。ただ、観覧に来た子供には、絶好のおもちゃであったらしく、動かしては中の透明ビーズをつぶしてみたり、コロコロ動かしてみたり、機械を操作していた。こうした機構、構造への興味が、機械いじりへの興味に繋がると思う。


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この作品は、ボートに設置される。運搬の都合上、ボートの部分は無く、それは同じ展示室にある映像作品によって提示されていた。

2019年の台風被害による日常の喪失、自然による破壊と生命の育みという二面性を表現したかったという。

スクラップでできた魚の形、デスクトップPCのケースを多く見つけてしまい、僕の目には懐かしさが見えた。ブラウン管テレビも、そうした感情を呼び起こすのかもしれない。

そうしたスクラップをボートに乗せて水に浮かべる。人類の築いた文明が、水没するかのような、そんな危うさ、それでいて、この作品の名前《はこぶね》という暗喩。


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作曲家ジョニー・ハイケンス。ドイツで活躍した作曲家は終戦とともに作品が破棄された。そうした曲がなぜか日本の鉄道の発着音に使われている。その音をMP3プレーヤーで再生する。聞き慣れた曲や、訪れたこともない駅の曲、記憶の中にある曲のフレーズを掘り起こす感じ。それが、ノスタルジーなどを掘り起こすのだろうか。

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曲に関するインタビューメモ。

リアルなやり取りが、なんとも脱力した具合に記録されている。そのノートの展示方法も、リングノートを破ったという点が若さというか、大胆な感じがする。こうした制作メモを提示しているのも、本展の特徴だと思う。


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大麻をモチーフにしたインスタレーション。大麻が、太古から人々の暮らしに密接につながっていたことからのリサーチ。布、薬物への加工、法による規制。作品は、麻畑を想起させる大麻のカーテン。実際に触れることもできる。そのカーテンの間を、僕の娘が歩いて行って、それによって大麻が揺れた。実際の畑の中を行くような錯覚。


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映像作品と土器を提示する作品。

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京都府亀岡市。今は法規制もある野焼きについてのリサーチ。

農業の一環としての焚き火、法規制もあって難しくなってきた。そうしたことをリサーチ、朝、高台に行って煙が立っている場所を探し、そこに行って交渉する。焚き火で土器を焼かせてもらう。

生活と炎と再生。

炎による焼却によって害虫の駆除、灰から芽吹く新芽。そうした再生の営みに思いを馳せる。古来から行われてきた農耕の再生産の仕組み。その炎で土器を焼くというのが、なんとも瑞々しい発想だと思う。縄文時代などは、こうして土器を焼いていたのだろうか。この作品によって、古代へ思いが飛ぶ。

アーティストとの対話も、とても楽しいものだった。


同時開催されていた東北芸術工科大学の卒業制作展「鹿逐う者は山を見ず」も迫力の大作品ばかりの展示だった。

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ゼミの学習会で、この作品について議論になった。ダンスをやっていたソーシャリー・エンゲージド・アート研究をしているSさんが、気になった。

身体性に注目しており、この作品にある人物の動きがよかったよう。動きのある人物の表情を切り取ったと評する。

僕は、この作品を見て思いのようなものが徐々に集まって人の形を取ったと解釈していた。

こうした人のバックグラウンドの違いによる作品解釈の違い。学習会に参加していたK先輩によれば、これが対話型学習の醍醐味と話をしていた。作品を見て、何を感じたか、それは何によってか。主観と事実を列挙し、一緒に見ている人とディスカッションしていく。そうしているうちに、新たな事実を発見したり、主観に影響しているものは何だったのかという新たな気づきが得られる。こうしてリフレクションを重ねていく中で、今まで気がついていなかった自分の感想の出所に向き合える。学習会での、こうした対話型鑑賞、継続していきたい。


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