マックイーン モードの反逆児(ネタバレ注意)と初ギャラリー訪問
ファッションの仕事に関わっている。裏方的な役割として。サプライチェーンとEC、デジタルマーケティングなどの相談をしている。デジタルの破壊力にどのように対処するのか。そうしたことの対策をしている。最近、ファッション業界へのデジタル破壊が、服の企画・デザインにまで侵食してきた。
アパレルデザイン。
これまでアパレルデザイナーの仕事からは距離を置いていたが、それでは済まなくなってきた。とりわけハイブランドのデザイナーが、どのような思考なのかが気になる。日本のアパレル各社は苦戦しているけれど、世界的に見れば、アパレル産業は成長産業、ユニコーン企業がいくつかあるし、世界の長者番付には、ファッション関連の創業者も名を連ねている。
7月頃の話。うっかりしていて、上映館が群馬の高崎に移動していた。映画を見るため、高崎まで出かける。(こんな小旅行もいいものだ。)
前衛で衝撃的なショーの世界観とメッセージ、評価は真っ二つに別れる。それをブランドとして商業的にも接続する。リー・アレキサンダー・マックイーンのアパレルデザイナーとしてのキャリアスタートから、自死に至るまでを時系列に構成。友人、家族、関係者、それと本人を含むインタビューとショーの映像から構成される全5章の作品。
労働者階級出身、華やかなハイブランドのデザイナーに抜擢、ファッションデザイナーとしての名声と富を手にいれた。その裏の苦悩を探る映画。
1995年。衝撃を与えたハイランドレイプショーでは、当初、アレキサンダー・マックイーンは、女性を嫌っているのかという印象を与えたが、実際に服を着てランウェイを歩いたモデルは、自分を守るための服であるという感想を持つ。
モデルにラップを巻いただけで服であると主張する再現性のないファッション、それをショーで披露する。 賛否両論あるが、ショーの次の日は、すべてのファッション雑誌の紙面でアレキサンダー・マックイーンを取り上げる。これこそ彼が目論んだこと。
ショーは、リーの感情表現であり、ジェットコースターのよう。ショーに全身全霊を注ぎ込み、ショーが終わったら燃え尽きる。ただし、すぐに次のショーが始まる。ジバンシー時代に年間10回、グッチに移ってからは年間14回。ディレクションを手がけるブランドと自身のブランドの切り盛りをしながらショーもやる。自分のブランドも売るし、ディレクションをしているブランドも売る。
義兄から幼いころに受けたDV、姉へのDVも目撃。そうしたトラウマがショーにも反映される。
僕は2019年の4月から6月まで、デスマーチのプロジェクトに入っていた。朝8時から業務開始して、終了は23時過ぎ。徹夜は3回、休日出勤は無かったけれど、怒声は飛び交う。このハラスメントに厳しい時代に、20年くらい逆光する環境。そのプロジェクトが終わったばかりに鑑賞したので、まさに全身全霊を注ぎ込むという表現にシンクロしてしまった。
高名なスタイリスト、イザベラがアレキサンダー・マックイーンを発見した。影響力のある彼女の後押しもあるが、リーが持っていた感性、スタイルはイザベラでなくとも見出したのかもしれない。イザベラとの決別、彼女の死が、リーにも多大な影響を与えた。
ショーで表現したアレキサンダー・マックイーンの哲学、ビジュアル、それをコマーシャルピースに詰め込むジバンシーの職人の力量。
できあがったサンプルに対してアレキサンダー・マックイーンが、ハサミを持って向き合うと、職人の間に緊張がはしる。職人は丁寧に糸をほどくが、リーはハサミで大胆にカットする。できあがったスタイルは、確かにかっこいい。ただ、高い生地なのだろうなと想像してみたり。
ここをもっと見たかったのだけど、映画では十分に表現されていなかった。
アレキサンダー・マックイーンが教えを受けたコージ・タツノの服作りは、「何でもいいから布を手に取る。そうした布を合わせればインスピレーションが生まれる。そうして服を作る」もので、アレキサンダー・マックイーンに多大な影響を与えたらしい。
ショーピースを買うのではない。ショーは、ブランドとしてのフィロソフィーを提示するところ。考え方、世界観。コマーシャルピースで、それを表現する。そこの連続性、接続性がなくてはならない。
最近は男性の方がショーピースを買い求めているらしい。アメリカのファッション・デザイナーが来日した際に、日本はメンズが面白いという話を聞いた。ショーで見ている服を、すぐに買えるという時代だけど、いろいろと振り返るのはいいと思う。
アレキサンダー・マックイーンは、女性が嫌いなのではなくて、女性に武器を与えることが目的だった。フェミニンな服なのに、これを着ると鎧を纏ったような感覚になる。
とても馬鹿げた服に見えたかと思えば、ハッとする服が出てくる。自分の中にある美が、リーの世界観に共鳴した時に美しいと感じさせる。
現代アートにおける美とは何だろう。
そうした疑問を持っていたけれど、この映画で少しヒントが得られたような気がする。
せっかく高崎まできたのだから、近所のギャラリー、rin art associationで鬼頭健吾の展覧会を鑑賞していく。
アート・ギャラリーの扉を開けるのは、確か初めての事。プライスリストがあり、展示されている作品に値段が付けられているということを実体験とした。
名和晃平の作品は非売品。
恥ずかしながら、大学院に入学まで名和晃平を知らなかった。なので、初めて作品と対峙する。
2階、3階は鬼頭健吾の作品が展示されていた。こういう会議室、楽しそう。
現代アートを学ぶために、何か作品を何か買うべきか考えていた。
3階に展示されていたこの作品が一番いいなと思ったけれど、果たして、こうした感覚でいいのだろうか。
悩みはするものの、購入までには至らない。
大学院の学習会での話で、三作品を見た白髪の作品のうち、国立国際美術館にあった作品が一番良かったという話をした。
K先輩は、それがとても不思議に感じたらしく、理由を尋ねてきたが、うまく答えられなかった。
マックイーンの映画を見たばかり、自分の中にある何かが、この作品に美を見出したのかな。とりわけ、黄色がいいと思った。
いただきましたサポートは美術館訪問や、研究のための書籍購入にあてます。