『Singer l'homme pour mieux le démasquer Le projet écologique de Pierre Huyghe』読書メモ
ピエール・ユイグのヒューマンマスクについて書かれたテキスト。フランス語は難儀したけれど、英語で書かれたテキストとは違った視点があった。
CIEREC - Université Jean Monnet Saint EtienneのDocteur Vincent LECOMTEによるテキスト。
ピエール・ユイグの2013年から2014年にポンピドゥーセンターで開催された回顧展では、スケーター、鷲頭の警備員がセレモニーを務めた。展示されている作品は、虫や甲殻類などであり、観客の関与を促すかのよう。
どこで作品が完成するのか。
彼の作品は綿密な計算の上で作成され、そうして作られたフレームワークに俳優たるアクターを配置する。その後に、どのような効果が得られるのかは、アーティスト自身も予測できない。
2010年代のピエール・ユイグの作品は、この地球には人間以外の種もあるということを提示しているように見える。人新世に対するユイグなりの解釈だろうか。
「彼のプロジェクトは、人類の人間性を浮かび上がらせることではないのか、と考えることができます。」
彼の作品の中で、意図的か、もしくは無意図的かによらず、鑑賞者は作品の一部になる。鑑賞の特異な体験の中で、種としての特異性、共通性を認識するのかもしれない。
この映像は実験室のようなものである。
服を着て、仮面を被り、ウィッグをつけた猿。それは、その仕草から時折、人間のように見える。
福島の廃墟になった居酒屋でマスクを被った猿が静かにある。
映像から見て取れるのは、この地域の人の活動が中断されているということ。テキストでは、ポンペイに例えられている。
映像の解説は、小さな俊敏なシルエットが様々な部屋を駆け巡り、立ち止まり、足取りを辿り、何かを考えているか、単純に仕込まれた身振り手振りを実行しているのか、まるで不思議な繰り返しをしているかのように見える。この部屋とその装飾は、ほとんどが暗闇の中にあり、マスクとのコントラストが画面の遊びとなっている。このキアロスクーロは、端正なマスクが表す偽りの顔は模範的な性格を強調している。
人間と動物の曖昧な関係性を明らかにしている。
マスクを被った猿は、実際には鏡のような効果を演出している。ユイグのこれまでのいくつかの作品のように、動物の仮面を被った(あるいはミツバチの巣をつけた)男性を見せるのではなく、人間の仮面を被った動物を見せるというのは、もはや論点ではない。あらゆる形態の動揺と混乱で遊ぶのが好きであるという。
無人になった居酒屋風の建物、この中に居るのは仮面をつけた猿。それに猫が見えた。突然、人が居なくなった空間で、アーティストによって雇われた猿が演技とも取れる行動を行う。それまでの日常(役割)が突然取り去られた避難区域。この映像を見た鑑賞者は何を思うのか。
Ana Teixera Pinto が«The Post-Human Animal What’s behind the proliferation of animals in recent artworks ?» で指摘していること。動物が人間にとってかわるかのような、反転あるいは進化。ユイグのこの映画は、人間性の再定義のマニフェストへ変容していく。潜在的なグロテスクさを超えた装置としての有効性、倫理的、存在論的な反省。
このビデオ、撮影した場所は分からないのだけど、こうした猿のウェイトレスというのは、昭和の時代にニュースかワイドショーで見たような気がする。日本人の目からすると、日光猿軍団とか、猿がCMに出演したりとか、それほど違和感が無く見られる。しかしながら、この動画のコメントを見ると、とても信じられないとか、ショックを受けたとかいうコメントもある。
冷静に見返してみると、その通りだと思ってしまう。
この動画で笑っている客は、ふくちゃんのことを子供のように思っているものと想像する。少なくともそうした見方があることや、実際に、そういう感想を大人の口から聞いたこともあった。
人間の肖像を《無題(ヒューマン・マスク)》の猿を通して知覚できるとすれば、それは推論であるが、微妙な気配を鑑賞した結果として生じる繊細な感覚である。それは鑑賞者の心の中で生まれ変わっている感覚だろうか。
人間は動物に比べれば、はるかに生き生きとしていない。しかし、アーティストが見せる世界は、(彼だけが生き残っているように見える。)猿は猿のままである。
ここで表現されているのは人間であり、服を着た動物。何よりもまずその服装が、主な識別要因である。ユイグの映画に登場するキャラクターは、人間を狙い、特徴づけるもう一つの方法なのかもしれない。よりコントラストをつけるためか、猫は猫として登場している。映画の途中に登場する機会仕掛けで、手招きをしている招き猫は何を表しているのか。
衣服は人間のアイデンティティの確立の一部である。現代の認識論的システム全体を構成する特徴的な基準(文化/自然)の2つの主要なクラスをまたいでいる。
理性のための衣服(対象と技術)、自己と他者との関係のための衣服(内面性、意識、謙虚さ)、必要性のための衣服(未熟児、環境への不適応、狩猟を装備するための道具)、社会生成のための衣服(身体の記号論)など、自然の区別、あるいはそのように考えられているもの。(Bartholeyns L'homme au risque du vêtement. Un indice d'humanité dans la culture occidentale 136)
衣服は、単に物、あるいはアクセサリー、装飾、身体の延長線上に還元することはできない。必然的に人間性が露わになる。ユイグがこの映画で見せたいのは、彼の作品の多くの部分と同様に、この人間性を露わにすることであるという。
そして、この仕事において、一般的な人間性のありのままの肖像画を描きたいという願望は、動物の存在や象徴、提示されたものや喚起されたもの、あるいは再構成されたものでさえも、しばしば画家が選んだ仲間であることを証明している。
ピエール・ユイグの作品は、マスクが繰り返し使用されている。彼にとってそれは身体と仮面の連想によって生み出されるイメージと、それが覆う現実との間の解離を実践する機会である。俳優であることを否定したくなるような「エキストラ」(アーティスト自身がよく使う言葉)が身につける動物の仮面は、アーティストにとってはプロセスであり、それ以上に、彼の作品を貫く儀式の価値を持つようになる。
儀式的な着用、先祖代々の伝承であるマスクは、アーティストにとって、人体と領土を脱構築するための道具となる。日常生活の中にあるかもしれない事実や仕草が、マスクのおかげで生まれ変わる。それは服と一緒に、逆説的に生命を明らかにする力を持っている。
テキストは猿の惑星へと接続する。猿の惑星では、人間が(再)動物化する。雄弁に話をする猿に追いかけ回され、動物のように沈黙するのは人間である。
猿の惑星の他にも、人間の動物性を表現した小説はあった。
ユイグは、この逆転劇をより狡猾に、より暴力的に、より現実的にすることを選択している。監督は、人間の側面から動物の存在を感じさせながら、観る者の意識を微妙に誘導していく。それは人間の獣性を記述するために。象徴的なものよりも生きていることの方が重要である。
ユイグは反転に長けている。多くの動物の頭を持つ人間の姿に命を与えてきた彼は、《無題(ヒューマン・マスク)》で、人間の頭を持つ動物の身体の進化を表現することを提案する。この作品では、もう一つの逆転現象が起こる。顔と体のパワーバランスを逆転させる。顔という表現力の主要な媒体は、通常は視線を集中させ、自己の投影ではないにしても、相互作用の形、交換の形を可能にしているが、ここでは根本的に「中立」になる。表現力の最初で最後の場所として、身体が突然現れる。そして、身体を通して(最終的に)自己を表現することができるのがアニマ性である。この問いかけを通して、動物と人間のパワーバランスもまた覆されていく。白い仮面が表向きに見せているように見える人間性の欠如。観客は、どうしようもない投影本能を捨て去ることはできない。
Giorgio Agambenは、「人間は、人間であるためには自分自身を人間として認識しなければならない動物である」(Agamben L'ouvert. 44)と主張している。
ユイグは明示的にこの哲学者に言及している。この人間化の構築を明らかにしようとしているのだろうか。
このテキスト、クリエイティブ・コモンズのロゴがついていた。
ヘッダー画像:Pierre Huyghe, Untitled (Human Mask), 2014, film, couleur, sonore, 19 minutes (Courtesy of the artist; Marian Goodman Gallery, New York ; Hauser & Wirth, London ; Esther Schipper, Berlin ; and Anna Lena Films, Paris. © Pierre Huyghe)