考え続けるために、アートを学んだ
アートとは趣味であり、教養であり、生きる原動力であり、ビジネスである。
昨今の社会、経済情勢は、不連続の様相を呈しています。そうした予測不可能な時代にあって、現代アートを体験することが、将来を見通す助けになると考えます。私は社会人になってから30年近く、プログラマとして小さなソフトウェア会社でキャリアをスタートし、コンサルティング・ファームを経て、大手ソフトウェア企業に勤務しています。職種は色々と変わってきましたが企業の困りごとをITを使って解決するという仕事内容に一貫して携わってきました。
ぼんやりとMBA(Master of Business Administration:経営学修士)を取得してみようかなと考えていました。とある同僚が夜間・土日開講のビジネス・スクールに通い始めたことに触発されました。ただし社内にはMBAホルダーが多く、開発部門に所属する同僚はドクターも多い。そのような中でMBAホルダーになったとしてもつまらない。それがMFA(Master of Fine Arts:美術学修士)に挑戦してみようと思ったきっかけでした。大学院で現代アートを研究する。同僚からは「現代アートが業務の役に立つの?」という疑問を投げかけられたのを覚えています。
なぜ、現代アートを学んだのか?
この質問に応える前に、現代アートを学んだことによって得られた事を整理したいと思います。
一つ目は想像の地平を伸ばすことができるようになったことです。
ある事柄や事象に対して想像もしていなかった領域にまで思考を広げられる不思議な感覚を手に入れることができました。こうした感覚が鍛えられたのは、難解で、突拍子も無いような現代アートを読み解く中で培われたのでしょう。思考の柔軟性、バイアスをうまくコントロールし、物事を解釈、評価する。オープンマインドを鍛えるために、アートの鑑賞は最適なのです。
二つ目は、価値生成について考えるようになったことです。価格戦略は経営戦略の中でも重要な事項ですが、商品の価格決定は原価からの積み上げあるいは売価を得るために仕入れ値に率を掛けて求める。いずれも原価からの出発です。こうした理論から全く自由になった価値生成が現代アートに内包されています。
例えばインクジェットプリンタで出力した作品が数百万円から数千万円で取引される。昨今、テレビの夕方のニュースでも現代アート作家の作品がオークションで高値で落札されたと報道されています。原価で見たらせいぜい数万円程度であることを考えると、現代の錬金術と言えるのではないでしょうか。
現代アートの価値生成はファッション業界に関連性が深いように見えますが、他の業界にも似たような取り組みを応用できるでしょう。実際に、製造業の顧客向けに提案もしています。
また2021年に大きな伸張を見せたNFTマーケットの勃興は、更に価値とは何かを問いかけているように思えます。
NFTへの熱狂はプラットフォーム競争を誘発しました。
NFTによって取引はデジタル上にも拡張されました。Facebookが社名をMetaに変更し、リアルとデジタルの二項対立からマージされる世界への変化を感じます。
2020年はCOVID-19による強制的なデジタルシフトが起こりました。業界を問わずデジタル化に向き合う試行錯誤が一斉に始まったわけです。それまでは業界別にデジタル化が緩やかに進行するだろうと予測されていました。様々な事象が現在進行形で起こっています。
三つ目は、よく見る、よく聞く、よく考えるようになったということです。一つ目と関連しますが、想像の翼を広げるために注意深く作品と向き合います。鑑賞体験から多重に引き出される解釈が、作品体験から日々のコンサルティングの業務にもフィードバックされます。企業が取り組むの課題をどのように捉えるのか、そもそも何が課題なのかという思考実験を繰り返す手法は、優れた現代アート作品の鑑賞体験から得られたものです。
現代アートを体験するということは、自分自身を振り返り内面と向き合うリフレクションであり、世の中を見渡す視点を身につけるトレーニングであり、不連続な現代をドライブするためのヒントを見つけることであると言えるのではないでしょうか。教養の庭に留まるか、自由に発想を飛ばすのか、それは鑑賞者に委ねられています。日常に接続した現代アートが提示するのはデジタル化、人工知能、気候変動、格差、ジェンダー平等、エシカル・サステナブル等枚挙に暇がありませんが、どれも今日的な世界の課題を提示しています。
私の研究はモダニズムの終焉からコンセプチュアル・アートの始まりを整理し、今のアートについて向き合いました。そして現代アートの迷宮の中で出会ったピエール・ユイグを探求することに至りました。
リモート・ワークの進展により、デジタルでのコミュニケーションが加速され、自身と他者との関わり合いにも変化が生じました。便利になった反面、ストレスと感じることもあるでしょう。ブライアン・イーノの言うアートは”個人が「かなり極端でどちらかというと危険な感情を体験するための安全な場所」を提供するもの”は、ストレスフルな現代人に癒し、あるいは狂気をもたらしてくれます。
2020年にドイツのメルケル首相(当時)は、芸術支援を最優先事項と演説しました。
現代アートのルールブック
何が現代アートで、何が現代アートではないのか。現代アートの定義とは何か。大学院での研究では、ビジネス・パーソンとして考え方が凝り固まっていたためか、そうした疑問に悶々とする毎日を過ごしました。定義が定まっているものではありません。そうなると評価されているアーティストの作品を見て学んでいく必要があります。トム・サックスのティーセレモニーを見たとき、視覚的な刺激だけでなく思考的な広がりを感じる端緒がありました。そして、クリスチャン・ボルタンスキーの大規模回顧展が転換点となりました。
仕事を進める上で定義付けは重要な意味を持ちますが、日常のほとんどの事象に定義をつけることができないということに気がついたと言えるのかもしれません。定義付けされた事項そのものを疑うことで、新たな発想が得られるのです。
一見するとアート作品と認識できないような難解な作品は、鑑賞者にコミットメントを求めてきます。ただし、作品は問いかけるのみであり、答えを示してはくれません。ビジネス・パーソンとしては、もやもやすることになるかと想像しますが、ここに不連続な時代をサヴァイブするヒントが隠されているように思えてならないのです。現代アートに潜んでいるゲームのルールを解き明かそうという試みは、ゲームそのものがシフトしていくために、詮無いことの様に思えてしまいます。
現代アートが何の役に立つ?
冒頭の質問にも繋がる問いかけですが、業務に役に立つ必要って何だろう?そんなことを思いつつ「人生が豊かになりますよ。」という具合に返答していました。その答えに満足する人がほとんどです。趣味や教養として学んでいると理解されたのでしょう。しかしながら大学院で研究してまで趣味や教養を身に着けるという発想が行き過ぎていると指摘する人もありました。ROI(Return Of Investment:投資利益率、つまり学費を回収できるほどのキャリア形成ができるのかということ。)を意識したなかなか鋭い指摘です。私自身、現代アートを研究してみて、これほど世の中のことを捉えることができるようになるとは想像すらしていませんでした。もちろん現代アートが直接的に私の業務に役に立つことはありません。しかしながら現代アートを研究しているうちに、知らずに身に着いた世界の捉え方、説明の仕方、そうしたことが業務に役に立っています。恩師からは現代アートを視るパースペクティブが身に着いたと指摘されましたが、このパースペクティブが、業務どころか、人生にも役に立つパースペクティブであったことを感じています。
コンサルタントとしての私の業務は、自社ソフトウェアを事業会社に提案し、活用し、事業の課題を解決していくことになります。最近は事業会社から提示される課題が明らかに変容したと感じます。連続性を持ったリニアな未来予測ができる時代ではなくなってしまいました。不連続な時代を見る眼と思考、視点を得るために、現代アートは最適なのです。
なぜ、そうしたことが可能なのか。
私が大学院で学ぶ際に自ら立てた目標があります。オープンマインドの獲得です。芸術作品を鑑賞して素直に感動するということは、様々な可能性を受容し、様々な意見を聞くということに他なりません。そうして物事の捉え方が変化し、思考の飛躍ができるようになったと考えます。
事業会社が抱える課題は、人の中からでてきます。もちろん、専門的な知識、技術的な知識が必要になる課題もありますが、ソフトウェアが解決する課題は人の問題であることがほとんどです。現代アートの特徴のひとつに人の問題にフォーカスし、クローズアップするというものがあります。物事の本質を捉え、メタファーとしての作品世界を通じて、その作品を語ることで、物事の本質を捉えることができるのです。
現代アートの特徴のひとつに日常生活に接続したことがあげられます。マルセル・デュシャンの《泉》(1917年)はあまりにも有名な作品として美術史に記憶されています。この作品は男性用小便器を壁に設置する面を下にして、作家のサインを施したものです。小便器は雑貨店で購入されました。そうした既製品が作品として提示された時の衝撃とともに、何故これが芸術なのか、という問いが発生します。日用品あるいは工業製品を利用した作品はレディメイドと呼ばれます。この衝撃は《泉》までと《泉》以降の芸術を決定的に分断する力がありました。なぜ芸術なのか、なぜ芸術とは呼べないのか、そうした問いかけは見た目だけでなく、思考の中まで展開することになります。自分自身のことを考えることになりますし、同時代性を考える事にもなります。
洗練されたビジネスと洗練されたアートは似ています。共通するのは、世界を見て、世界を知りたいと思う人の自然な欲求が、ビジョナリーとしての人の力を解放することにあるのではないかと考えています。これは現代アートに組み込まれていることであり、アートとビジネスはお互いに包摂していると考えます。
アートのパースペクティブを身につけるために
コンセプチュアル・アートは戦後モダニズムの変遷のうねりの中で出現してきました。様々な批評家が、アイデア主体のアートについて説明を試みましたが、あまりうまくいっているとは言えませんでした。
絵画や彫刻であれば芸術であり、美術館に収められれば良い作品である。そうした権威を疑うという活動があったのです。あるいは絵画であれば、彫刻であれば、それは芸術なのだろうかという問いかけが生じたのでしょう。現在はデジタル上に存在するデータが芸術なのか、という議論が起こりつつありますが、それは別の機会に検討したいと思います。
芸術とは何か、それをはっきりさせるために、一度芸術から離れる必要があったのでしょう。コンセプチュアル・アーティストのジョン・バルデッサリは、自身の売れなかった絵を焼却する火葬のパフォーマンスを行いました。
世界は高度情報化社会への階段を上る中で、ダナ・ハラウェイは『サイボーグ宣言』で、人間と機械の境界が無くなっていくことを示しました。社会がソーシャルネットワークサービスに依存している現状を考えると、既にサイボーグ化していると見ることができるでしょう。ジャン=フランソワ・リオタールは、『ポストモダンの条件』と『知識人の終焉』で情報そのものの価値について言及しています。そして1985年の「Les immatériaux(非物質的なものたち)」で新しい情報化社会を提示したのです。
スマホによって世界が変わったように、高度技術の発展とテクノロジーの民生利用は、とても大きな影響力を持っています。思想からの啓発は既に効力を失い、具体的なわかりやすさが求められているのでしょう。しかしながら、Appleが携帯電話を作ると発表した際に、ここまで影響力があるものとは、ほとんどの人は想像していなかった事でしょう。
1990年代に入るとアート・ワールドも不景気に見舞われます。停滞するわけですが、こうした停滞期には色々な実験が行われるようです。ビデオ・アートが誕生したのは、そうした背景があったからでした。SONYは高価だったビデオ・カメラを気軽に手に取れる価格にまで下げたのです。
ピエール・ユイグは数々の作品を通じて、フィクションが如何に人々の記憶を改変しているかを提示しています。彼は日本のアニメからも着想を得ています。彼の作品で提示されるのは、頭部と体のバランスが著しくチグハグな動物の仮面をつけた人々、前足をピンクに染められたグレイハウンド、頭がミツバチの巣になっている裸婦像、実際の事件をモチーフにした映画を素人を使って再演した映画、京都大学の神谷研究所の脳科学の成果を示したコンピュータ・グラフィック等です。かなり難解な作品を提示するのですが、私にはとても日本的なプロトコルが内在しているように見えてなりません。ちなみに、ピエール・ユイグの映像作品は、LVMHの会長、ベルナール・アルノーがコレクションしています。
生物と非生物、目に見えるもの、目に見えないが存在しているもの、アニミズム的な発想が根底にあり、そうしたアイデアをアーティストのフィルターを通して作品として提示しているのです。
トップアーティストの作品を見る。現代アートを理解するための遠い近道です。なぜ、そのような作品が批評的にも、マーケット的にも評価されるのか、それは同時代性を映す依代だからなのかもしれません。