今ここの「ここちよさ」を選び取っても、未来の私は大丈夫なのかな?
市川望美です。あっという間に2021年となり、あっという間にもう一月の半分が過ぎました。個人的にも、歴史的にも、2020年は確実に「忘れえぬ年」となりますね。コロナの影響はまだまだ続いているけれど、2020はビッグプッシュ、グレートリセットであることは間違いない。
さて、今日は、よくいただく質問への答えのような投稿です。
ここちよさを選ぶ不安|理想と現実
わたしは沢山の人に直接私たちの考えをお伝えする役割が多いので、それに対する反応・フィードバックを直に受けることができます。
共感されたり、モヤッとされるポイントは人それぞれではありますが、『 ここちよく暮らし、ここちよくはたらく』という言葉は多くの人に届く言葉のようです。そんな風に暮らし、働いてみたいと。
創業時は「そんな甘えたことを…」みたいに言われること多かったけど、ここ最近は社会の中で使われることも増え、「ここちよさ」という感覚はかなりキーワードとなっているように思います。
それでも、間違いなくそうだと思うんだけど、本当にそうしちゃっていいのかな・・・今ここの「ここちよさ」を選び取っても、未来の私は大丈夫なのかな・・・という不安も拭い去れないようで、実際にこういった質問を受けることがあるのです。それが今日の記事のタイトル。
『理想と現実』ってやつでしょうか。
理想的だけど、そんな甘えや楽は許されないのではないか、なんらかの代償が待っているのではないか、「ツケ」を払わされる日が来るのではないか。不安がよぎる。
だから、「大丈夫なのかな・・・」と自問自答する。この「・・・ 」の中には、隠されている想いや、のみ込まれた言葉がありそうです。
「ここちよさ」の代償と、我慢の先のご褒美
私としては、この記事の中で、とうとうと書いているように、
「ここちよさ」は「生ぬるい」というようなものではなく、むしろ結構大変なことなんだと思っているので、自分の中の違和感に気がつき、ここちよさに真摯に向き合っている人は、ほめられこそすれ、罰せられることなんてないはず・・・。そう思っています。
自分(だけ)のここちよさを見極め、そのここちよさを実践し、罪悪感を抱くことなく、素直にここちよさを味わうためには、実は”スキル”すら必要なのではないかとも思っています。この”スキル”は、強化したり獲得していくような質のものではなく手放していくような質のもの。アンラーン/学習棄却的なものなのかな。
不確実な時代、多様性の時代の中で、自分の感覚を信じられないと、きっとものすごく疲弊するし、不自由。「合わせるべき正解」が1つじゃない。いろんな正解がある。もしくは、何が正解か分からない。そもそも正解すらない。その中で自分らしく生きていくためには、自分のことを知る必要がある。
だから、私の答えは「大丈夫」です。
「べき」論から自由になって、自分自身の人生を取り戻す。自分が生きていることの手触りと納得感を得ていくために「ここちよさ」という軸で大小さまざまな選択を繰り返していくプロセスがとっても重要になる。
自分を取り戻すのって、年を取ると難しいから、早いうちに自分のここちよさを知っておいた方がいい。「大丈夫かな・・・」と恐れずに、すぐにでも着手しちゃえばいい。
だって今日が、残りの人生で一番若い日なんだから。「今、ここ」から「ここちよさ」を選ばないと、未来が「ここちよい」ものになっていかない。
そこを信じて、自分自身がここちよくあることをゆるしてあげないと。
「本当にそうしちゃっていいのかな」と不安に思う人たちは、多くはまじめで努力家だったり、和を重んじる人たちだったりする。自分のわがままで調和を乱してはいけないって思っているのかもしれないけど、逆に言えば、その我慢や妥協の先には何があるんだろう?どんなご褒美を与えてもらえるんだろう?
現実の人生とは妥協の産物?
理想と現実ってなんだろうなあ、、、とつらつら考えていて、こんな言葉たちに出会いました。
セカンドベストかあ・・・なんか納得できる部分もあるな・・・
何があった、乱歩!(彼はすごい人間嫌いだったそうですね)
ーー
どうやら、生きるということと妥協するということはものすごく密接で、過去多くの場面で「妥協」が必要とされてきたのは分かったけど、でもそれは、これからの私たちが生きていく社会に必要なことなんだろうか・・・(個人的には「生きるとは妥協すること」とは言いたくない私です)
このnoteを書きながら、
(noteの記事は一気に書くものもあれば、ネタ帳的に下書きしておいて熟成させたのちに世に出る記事と両方あって、これはわりと寝かせておいた記事です)
つらつらと「理想と現実ってなんだろなー」と考えているなかで出会った本の中に、「そうだ、そういうことなんだ!と思えるヒントが書かれていました。山口周さんのこの本です。
「未来のためにいまを犠牲にする」ということ
現在がいったいどんな社会なのか?「新しい時代」というけれど、その前に、何を終わらせるのかということを理解する必要があること。より人間らしく生きていくために本当に必要とされるべきことは何か、ということが書かれているのですが、その中にあるこの言葉が、まさに「今ここの「ここちよさ」を選び取っても、未来の私は大丈夫なのかな?」という問いかけに対する一つの明確な答えだと思うのです。
「コンサマトリー」って、聞きなれない言葉だけど、本の中でこう説明されていました。
インストルメンタルとコンサマトリーの対比はこんなこと。
不足を補うために発展を遂げてきた資本主義経済も、もう役割を終えている。十分に豊かになっている。不足を訴えて消費に追い立てるようなことはしないで、もっと違うやり方を探そう、というお話です。
「それをやって何になるのか」と考えず、なんか楽しそうだな、やってみたいな、行ってみたいな、だけを手がかりに動く。行ってみて、やってみた結果どうだったか分からないけど、ただ行くだけ、やってみるだけでいい。それ自体が目的であり、そこから得られるものは自分の内側に蓄積されていく。他の人がどうでも、自分の中に意味や理由や価値がある。
目的や理由を探して制限してしまったり、「〇〇したいな」という気持ちを抱くまえに、すでになんらかの「目的」があって、その目的のために今何をなすべきか合理的に決断する/せざるを得ないということは、未来志向ではあるけれど、今を犠牲にしているともいえる、ということですね。
ここちよい暮らしとは、自分を満たすこと。
決して、何かから逃ることや、ズル、楽をするということを表しているのではなく、「”いま”を豊かに、瑞々しく生ききること」なのだと思えば、「ここちよさ」もずいぶん前向きにとらえられるでしょうか?
物質的な豊かさではなく、より深い、馥郁(ふくいく)とした豊かさ。
「生きる」のではなく、「生ききる」。
「本質的な意味でより豊かに、瑞々しく、それぞれ の個性を発揮して生きていくためには、各人の個性に根ざした衝動を解放しなくてはなりません」とも山口さんは書かれていますが、「各人の個性に根差した衝動」につながる感覚が「ここちよさ」なのですよね。
ここちよさは、根源的な個性に根差した衝動を、日常的に感じられるアンテナ。ここちよさを認めることは、根源的な自分の個性を認めていくことでもあるんだな。