「共感」への違和感|ブレイディ みかこ 『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』(1)
市川望美です。
8月20日でPolarisは10周年を迎えることができました。ありがとうございます!10周年記念プロジェクトとして、10年を共に過ごした方々と振り返るインタビュー動画15本&役員による当日生配信のアーカイブと、合計16コンテンツが誕生しました。Polarisという組織がどんな風な関係性によって10年続いてきたのかが感じられるかなーと思いますので、よかったらご覧ください。(↓チャンネル登録よろしくお願いします~)
さて、今日は「共感」という言葉について得られた新しい知恵について。
私個人が生きていく中で、そして、Polarisという組織の運営の中で考えていた「共感」という言葉で表現しきれない何かが、この本の中で「エンパシー」という概念によって整理されて、長年抱いていたモヤモヤがとってもクリアになったなあ・・・と大興奮です!
その本は、ベストセラーとなった『ぼくはイエローとホワイトで、ちょっとブルー』のブレイディみかこさんの新著、『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』です。
そもそも抱いていた「共感」への違和感
Polarisは、「当事者であること」を大事にしているので、事業のスタートは、自分たちと近しい「育児をきっかけに離職した女性」が主な対象でした。でも、それはあくまでも「はじまり」であって、目指すのは誰もが心地よく暮らし、働くことを選べる社会とすること。
でも、その辺がうまく伝えられない。子育て中で、時間と場所に制約があるから、家の近所だったり、在宅で働きたいと思っているけれど、それを単純に「子育てしながら働きたい、ママさん独自のニーズ」として片付けられてしまう。
「ママさんたちが助け合って働くのって素敵ですね」とか共感されても、全然嬉しくない。その要素は確かにそうで、全く違うと否定しきれないけど、なんか違う。
これは「多様で柔軟な働き方を選びたい人達」のニーズであって、「ママ」に限った話ではないのに・・・と思っていましたが、なかなか伝わりにくかった・・。コロナ禍で、その辺の感覚はより多くの人に共有できるものになったのではと思いますが。
投げかけられるいろんな言葉に違和感があって、「私たちが本当に伝えたいことを伝えきれてないな・・・」ということはくっきり感じていて、「共感に訴える」「理解しやすい形で説明する」ことの危うさを感じました。
「ママさんたちのもの」とされた途端、そこに分断が起きてしまう。対等な関係なんかになれないし、「支援する/される」の立場になってしまって、新しい仕事や価値なんて生み出せない。もちろん、リスペクトの表現の一つとして「共感」を示してくれた人もいるだろうし、安い労働力・下請けっぽく扱われなかったことは喜ばしい事ではあるんだけど。
安易な共感より、純粋な質問
また、「子育て当事者」内部に目を向けても、理解と共感を示してしまうことが逆に大切なものを隠してしまうことがあって。
同じような立場の女性同士であっても、安易に「そうだよね」「わかるわかるー」と共感してしまうと、本心が隠されてしまう。「同質の人たちの共感をベースにした関係性」の中では、そうせざるを得ないことが多々あるらしく、それはつまり「悪目立ちしたくない」ということ。(私個人はその感覚持ち合わせないけど)
その辺の危機感もあって、2014年頃からセミナーや内部の資料で、こんなスライドを使っていました。「安易な共感より、純粋な質問」を大事にしていきたいと書き、「ママだからこうする」ではなく、「本当はどう思ってるの?どんな課題があるの?これからどうしたいの?」と、お互い聞きあって、持ち寄ることがしたくて、ずっと座談会などを開催し続けています。
「あるある話よりも、あるんだ話」
そういった考え方がPolarisの中でも明確になっていくと、「私たちが目指すのは、違いを前提に、多様であることを課題とせず、むしろ異なる人たちがいることを推進力としていくことができる、寛容で創造的な組織」となることを目指していくことになるし、「あるある話よりも、あるんだ話が有効」ということもわかりました。
「あるあるー」と共感でくくってしまわず、「へえ、そんなのあるんだー」といったコミュニケーションの方が、のびのびとその人らしく過ごせる。違いに出会ったときに「理解できない、ありえない」とバッサリ切り捨ててしまわずに「へえ、そうなんだ、知らなかった」と、「知らないを知る」という価値を感じたり(知らなかったことに出会うことは、Polarisで大事にしていること)、「それってどういうこと?」「なんで?」と聞くことで、お互いを知りあうきっかけとなったり。
安易な共感より純粋な質問、あるあるよりもあるんだ話、です。
ウェットに気持ちでつながるのではなく、関心と意思をもって関わりあうことこそが大事にしたい感覚だし、元々の性格とか気配りじゃなく、経験値でありスキルである。それが、私たちが言いたいことなんだな、と思うようになって、それらをベースにしたコミュニティづくりやチームづくりを行っております。
「コミュニティづくり」とか「チームづくり」というと、感情的な結びつきをつくろうとしたり、距離を縮めたり、同じ仲間を増やそうとしがちだけど、私たちが大切にしているのは、仲良くなる必要はないけれど、仕事の上で助け合えることだったり、違いを違いのままに受け止めて、でも目的やゴールのために協働できること。
そんな関係性こそ、色々な立場の人たちとやっていく中で重要になる考えだし、仕組み化したり構造とか環境設定もそれを前提としています。
一緒にやっていく中で相手を理解したり、その結果お互いの存在が近くなったり、当然仲良くなっていくのですが、あくまでも入り口は「違い」であり「仕事」である。
それは、子育てとか生き方にも役立つ考えだよねえ、、と思ったりもしています。
エンパシーとはなにか、シンパシーとどう違うの?
さて、、、ここでやっとエンパシーの話につながります。
そんな風にずっと、「共感」という言葉の危うさを感じてきた私たちですが、この本を読んで「共感という言葉に感じていた違和感は、エンパシーとシンパシーの違いにあったということが分かりました。
どちらの言葉も「共感」ととらえられることが多いし、私もそういった理解をしてたけれど、この本ではこんな風に説明がされていました。
両方の語を英語で理解すると、エンパシーの意味の記述の冒頭に来るのは「the ability(能力)」で、シンパシーは「the feeling(感情)」。
エンパシーは能力だから身に着けるものであり、獲得できるもの。シンパシーは、その人から出て来るものだったり、内側から湧いてくるもの。
もう少し引用すると
日本語では両方とも「共感」とか「感情移入」としてしまいがちだけど、ずいぶん違うし、この違いは、私たちが考えていた「共感」の危うさや自分たちのとらえ方との間にある違和感そのものだった。私たちが思っていたのは「エンパシー」のほうだった、ということですね。
この違いを理解したり、「エンパシー」の能力を獲得して磨くことで、異なる人たちと共に過ごす、働くことがもっとリラックスしてできるようになるのではなかろうか。
意見が違うときに「間違っちゃった!」と落ち込んだり、「空気悪くしてすみません」と自分を貶めたりしなくていい。「能力」なら獲得できるし、教育可能なのだから、エンパシーを、関係性の中で獲得して育んでいけばいい。
人と関わることは面倒だったり、違うこと=多様であることって、とっても面倒くさい。だからこそ、変に割り切ってしまったり、閉じてまもったりするのかもしれないけど、それは「違う」人を感情的に共鳴して心を寄せたり、違う人を「受け入れ」ねばならないと思い込むからめんどいのではないだろうか。
別に、同じ思いになる必要はないし、共感する必要もない。
たまたま、別の流れでおすすめされて読んだこの本の中にも、『理解と共感に基づく共同体はつらい』と書かれていて、『理解と共感の上に人間関係を築く』という現代日本のイデオロギーともいえる常識に振り回され「周りの人が理解できない、共感できない自分は「変」だ』という低い自己評価を持つ人が増えている、と書かれていました。
この2冊の本についてはまだまだ書きたいこともあるんだけど、長くなってしまったのでまずはここでおしまい。
『他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ』の「共感」についてしか書けなかったけど、他にも「アナ―キック」だったり「他者」という観点からも、色々気づきや納得があったので、(2)でまた書きます。
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