旅の思い出
前回投稿「思い出のアルバム」のサイドストーリーとして
土産物選び
旅行に行く。
自分的には誰かへのお土産は基本的に食べ物にしている。
好むと好まざるという問題はあるにせよ、消費可能なものを差し上げるのが無難だろうとの考えだ。
アクセサリーだとか置物だとかは、食べ物に比べればかなり趣味嗜好がハッキリする。しかも消えてなくならない。
例えばカエルの置物があったとする。
カエルは好きだ。幼い頃から好きだった。生きものとしてもそこそこ好きだけれど、置物やキャラクターとして大好きだ。
だから、余程高額でない限り買ってしまう。
小学校低学年ぐらいまでだっただろうか、某薬品メーカーのマスコット(指人形)を幾つも集めていた。
無論、子どもが薬を買い集めることなどあり得ず、親にせがんでどうにかして入手して来てもらったのだと思う。非売品だし。
歳の離れた従姉からも貰っていたような記憶がある。
同級生のランドセルにぶら下がってるのを見て「それ欲しい。」と言い、怖い顔で強く断られた記憶がある。確かサトウさんという女子だった。
未だに覚えているのだから、その時は意外と傷付いたのかも知れない。きっとそうだろう。
集まったカエルたちには一体ずつキャラクターを設定し、ひとつ箱を基地に見立て、遊び相手がいない時などに独り遊びをしていた記憶がある。
大切な宝物だった。
捨ててはいないはずだ。いずれ実家の押し入れで再会できるだろうと思っている。
それは、実家の整理をしていく中で密かに楽しみにしていることのひとつだ。楽しみは後に取っておくタイプなのだ。
話しを戻すと、そんな訳で旅先の土産物屋は勿論のこと街の雑貨店とかでも、デフォルメされたカエルの置物なんぞを見かけるとついつい手にしてしまいがちだ。
しかし、自分がどんなに可愛いと思ったとしても、カエルなんて大嫌い!両生類はヌルヌルだし。そもそもカワイイものになんて興味がない!という人だっている訳だ。
一方、食べ物だったら差し上げたご本人のお気に召さなくとも、家族の誰かが好きかも知れない。
よしんば誰の好物でもなかったとしても、家族全員が絶対に食べられない、見るのも嫌だ、などということは考え難い。余程のゲテモノを差し上げない限りは。
ただし、一人住まいの相手の場合にはハードルが上がる。本人が食べられないとなると行く宛がないかもしれない。ゴミ箱行きは残念過ぎる。
けれどもそれはそれで仕方ないのかも知れない。何ひとつ無駄にしないことなど所詮無理なのだ。
結果、お土産には消費可能なものを厳選して贈る、というところに帰結する訳である。
頂き物
ところが、お土産を貰う立場となると様相は大きく変わって来る。
何ひとつ自分の意思は反映されなくなってしまうのだ。
そりゃそうだ、誰かが自分の居ない所で選んでくれているのだから、特別に「○○に行くんだったら、名物のアレを買ってきて欲しいな。はい、これ餞別ね。」みたいなやり取りでもない限り、お土産というものは一方的に贈られるものと決まっている。
それでも、ある程度付き合いの深い相手だったりすれば、こちらの趣味嗜好を承知してくれていて、貰って嬉しいものを買って来てくれることが多い。
或いは、自分と同様の考えなのかもしれないけれど、消費可能な物をお土産にしてくれる。
しかし、そうでなければ予想外のお土産(縁起物とか置物とかキーホルダーとか)を頂いてしまうこともある。
そして、それらは折角の頂き物だからと机上やら書棚やらに取り敢えずは鎮座するのだが、そのうち溜まって行き、いずれ仕舞い込んだり目立たない場所に移動したりすることになる。
実家の場合、人形ケースがその行き着く先となっているのだ。
土産物をどうしたものか
その手の消費可能ではない土産物にも、いろいろとパターンはある。
ヒトガタのもの。その土地の特産品を模したもの。民話や伝統芸能を表現したもの。「交通安全」とかの文字が刻まれた縁起物的なもの。などなどだ。
詳細にカテゴライズしたところでこの際あまり意味がないだろう。
実家の大中小それぞれひとつずつのガラスの人形ケースの中には、所狭しとばかりにそういった土産物などが収納されている。
そのうちの小サイズの人形ケースは、実家の押し入れを整理していた時に新聞紙にくるまれてケースごと仕舞われていたのを見つけた。
ケースの中には、数々の置物等がティッシュなどを緩衝材として壊れないよう丁寧に仕舞われていた。
それらをいったん取り出し、改めてケース内に並べてみる。
立錐の余地がないとはよく言ったものだ。満員御礼状態だ。
予め箪笥の上に飾られていた大サイズと中サイズの中身と併せれば、土産物たちは相当な数になると思われる。
その殆どは、職業柄ということもあって亡き父が買い求めたものだと思う。父の旅の思い出なのだ。
どうしたら良いだろう。
基本的には処分しなければならないだろう。自宅に持ち帰って飾るのは難しい。
まず第一に物理的に難しいし、自分で両親へのお土産として買って来たものも含め、飾ることに何だか違和感がある。
自分で自分用に買って来たものだとしても、自宅に改めて飾ることには十分に違和感がある。
箱に戻して再び仕舞う手もあるけれど、それでは進めつつある実家整理作業が後戻りしてしまうと言うか、そもそも仕舞っておけないから整理しているのだ。
見て見ぬ振りも出来ないだろう。当たり前だ。やはり処分しかないのだ。
ヒトガタのものは、五月人形たちと同様に神社に納めることが出来るし、それが良いと思っている。
困ったのは、縁起物的なものや、城とか塔とかの建造物がモチーフのものとかだ。
概ねは可燃物だ。しかし、困ったことに誰かの想い出の品を躊躇することなくゴミ袋にポイっとは出来ない性分なのだ。
断捨離には向いていない性格だと思っている。
勿体ながりとか貧乏性とかの前に、妙なところに感情移入してしまいがちなのだ。
行き着く先は
仮に自宅に焼却炉があったとしても、きっと火にくべることは出来ないような気がする。
地域のどんど焼きの時に持参してお焚き上げ、という手段もあるだろうけれど、目の前で燃やしてしまうことに変わりはない。
とは言え、ここで迷ってもいられない。いずれアルバムだとか手紙だとか、気持ちの上でも物理的にも容易に廃棄できないものたちを次々と処分していかなければならない時が来る。
やはりお焚き上げサービスの利用なのだろうな。
人形や衣類、小物、アルバムなどなど。遺品整理サービスと称しても良いだろう。
指定されたサイズの箱に人形等を梱包してから回収して貰い、業者が提携している寺社で供養やお祓い、お焚き上げしていただけるというサービスだ。
こういうことに手軽さや安さを求めるのはどうかとは思うけれど、自分自身の直接の想い出のないものだけにこの方法もありかな?と思える。
アルバムなどなど、単にゴミとして処分出来ないものと合わせて、お焚き上げを依頼してみよう。
旅先での想い出は大切、いや寧ろ想い出のために旅をする場合も多いことだろう。少なくとも自分にはそんな感覚がある。
そして、お土産は一緒に旅をしなかった人たちと想い出を共有するための入り口であったり、自らが振り返って旅の想い出に浸るための鍵なのだ。
しかしながら、いつかは必ず処分しなければならない時が訪れてしまう。
そうなる前に自らの想い出も纏めておかなければ。
ところで、最後に旅行に行ったのはいつだったろう?お土産物がないから思い出すことも出来ない。