自己紹介 その2
幼き日の思い出
横浜で生まれた。
所謂「浜っ子」である。
横浜は広い。海から山まで揃っている。
けれども、横浜のイメージは、やはり海。
それも砂浜ではなく港だと思う。
勿論、昔(と言ってもだいぶ昔)には砂浜もあった。あったと聞いているし、写真や地図でみたことがある。
残念ながら、人工物を含め、この目で現物は見ていない。
今もなお歌える横浜市歌(これは凄いことだと思う。海老名市歌を歌えるかはかなり怪しい。)や、通っていた小学校の校歌(これも凄いことだと思う。以下市歌と同様。)の歌詞を顧みるも、港を臨む素朴な屋並みのイメージはあっても、砂浜沿いに点在する家々といったイメージはない。
やはり横浜は港町のイメージなのだ。
生まれ育った家は高台にあって、港を見下ろす風景を毎日見ていた。
もっとも、見下ろすと言っても眼下に見下ろすという位置関係ではなく、遠景として見渡せたと言った方が正しいのかも知れない。
時は高度成長期真っただ中の京浜工業地帯。
幼い頃は、まだ湾岸の貨物線に貨車を牽く蒸気機関車が走っていた時代だったけれど、新たな建造物が次々と建設されるなど、風景は加速度的に変化していった。
少し遠くを見れば、当時、横浜港の灯台として機能していたマリンタワーは、毎日目にする街のランドマークでもあった。それに加えて、赤と白の灯台が夜ともなれば灯火を輝かしていた。
新旧が入り混じった風景だった。
眼下に走る二つの国道も、日々の見慣れた風景の一部だった。京浜第1国道と第2国道、今もなお健在の湾岸の大動脈、所謂イチコクとニコクだ。
ちなみに、横羽線が建設されるのは、だいぶ後になってからの話だ。
また、港が遮るものなく見えるということは、常に浜風を受け止めていることでもあった。
台風で強烈な浜風が吹く時には、雨戸のない窓ガラスに激しく雨が叩きつけられ、当時のサッシの性能では、丸めた新聞紙でレールの辺りを押さえておかなければ、畳に雨水が押し寄せるほどの水勢だった。
テレビアンテナは、今のものと比べると素材も良くなかったのだろうけれど、潮風で短期間のうちに真っ赤に錆びてしまった。所謂、塩害というものだろう。
高台から坂を下りると、そこには大きな商店街があった。枝分かれしたような小さな商店街も付随していた。そして勿論、それは今でも在る。
時折りグーグルアースで散歩してみる。いつか自分の足で歩きたいと思いつつ、いまだ実現していない。
小学校の教科書には、横浜の四大商店街として載っていたと記憶している。今はだいぶ捉え方が違っているようだけれど、それも当然のことだろう。商業の在り方は大きく変わってしまった。
そして、その商店街で日々の買い物をしていた。ちなみに当時の買い物は、今のようなエコバッグとかではなく、籐編みの買い物籠に買ったものを入れていた。
山側に進めば、街並みは意外とあっさり途切れてしまい、今でこそビルが林立し、スタジアムやアリーナが並ぶ新横浜の辺りは、当時は一面の田んぼと隣接する雑木林によって構成されていた。
間違いなく、そこに住む人やそこを訪れる人の数よりも、蛙の数の方が圧倒的多数だったことだろう。
幼い日々を思い起こすと、断片的にいろいろな記憶が蘇る。
人の記憶の儚さ故に、連続していないのは残念なようであり、連続していないからこそ幸せなのかも知れないけれど。
「浜っ子」であること
で、身勝手を承知で何を言いたいのかと言えば、そういう環境に育ってこそ「浜っ子」を堂々と名乗れるのだと思っている。
周辺部の区には、海が無い。接していないどころか、見えさえしない所も多い。
また、仮令海が無い区であっても、歴史ある旧東海道の宿場町であったりすれば、横浜らしさを感じる。
けれども、現実的には、その何れにも該当しない所が多いのだ。
横浜ナンバーのクルマを所有しているだけでは、必ずしも「浜っ子」を名乗れないだろう。
湘南ナンバーのクルマを所有しているけれど、「湘南ボーイ」を名乗れるエリアに住んでいないことと似ている気がする。
遠回りして回りくどいけれど、要は自分は「浜っ子」だと言いたいだけなのだ。
だから何だとか、それがどうしたとかの問題ではなくて、横浜らしい街で生まれ育ってこそ「浜っ子」である、と言いたいだけなのだ。
「横浜」という港町への、ごくごく個人的な思い入れなのです。
と言う訳で、私は浜っ子です。
ただし
今は、というより、既に人生の大半を(ごくごく近くではあるけれど)横浜を離れて生きて来た。
今更港の近くの横浜に転居し、残る人生を加算したとしても、平均余命を鑑みれば、横浜を離れて生活して来た年数を上回ることは相当に困難だろう。
てか無理。
だから
「浜っ子」の定義が、「横浜で生まれ育ち、横浜で暮らし続けている人」ということであれば、前言は撤回し訂正します。
「私はかつて浜っ子でした。」と。