小説は作者が神様だ
中学校の国語の授業での思い出。小説の批評の練習だった気がする。教科書の小説の結末を自分だったらこうするというアイデアを書きなさい的な課題があった。
そのときの私はすぐに課題に取り掛かることができなかった。
なぜなら、私にとって小説は作者の作った世界こそが正解であり、そこに足すものも引くものもないと考えていたからだ。
そう考えるのは、私が小説を美術作品と捉えていることが根底にある。
私はあまり美術には明るくないが、一見理解のできないものが素晴らしい作品として評価を受けていたりするように見える。
それらは大抵、オーディエンスが理解できなくとも、作者のこだわりが詰まっている。
言い換えると、創作物というのは全て作者にとって完全体であり、他人がどうこう批評する対象にはなり得ない。
例えば、なにかの曲を好きになったとき、このサウンドがいいからとか、この歌詞の言葉選びが好きだからとか、工夫が好きの理由になることはある。
しかし、その工夫や技法をマイナスに捉えてこの作品はよくないと評価するのはいかがなものか。
作者が作りあげた世界は他人からすれば歪に見えることもある。しかし、その歪さこそが作者の理想だとするならば、創作に不正解はない。
話を戻すと、私は小説の結末に対して「自分だったらこうする」なんてことは考えることができない。
私の好みで結末を変えてしまっては、それはもやは作者の作品ではない。同じタイトルを名乗る資格がない。
だが、小説と美術作品には違いがある。
美術にはルールがないのに対して、小説、つまり文章には文法などのルールがあることだ。
ルールが存在するから、小説は一定の条件のもと比較しやすい。だから批評の対象となるのだろう。読者への伝わりやすさなどが、評価対象になるのだろうか?
しかし、言葉も美術作品と同じように、歪な言葉が作者の意図の上に作られたものならば批評のしようがない。
また、作者がどこまで考えて言葉を書いているかなんて、作者以外の誰も真実を知ることは不可能だ。
時代が変わってから評価された作品があるように、美的センスというのは時代や環境によって変わるものだ。それなのに何故、美しさに優劣をつけることができるのだろうか。
と、中学生のときはずっと考えていた。中学の国語の先生は、課題に取り組めずにいた私に親切に説明してくれたが、どれも私を納得させてくれる話ではなかった。
創作は作者が全てじゃないのか?ずっと疑問に思っていたことが高校生になったとき解決した。
高校の国語の先生が言った。
「小説は作者が神様です。絶対です。」
作者が悲しいと言えば、これは悲しいものだと。
そのとき、そう!それが言いたかったんだ!と数年かかって私のわだかまりが一瞬にして解消された気がした。
私は小説を与えて頂いた立場だ。なんの力もない、いちオーディエンスに何ができよう。ただ、小説を楽しめばいい。批評だなんて偉そうなことできない。
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