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【映画感想】「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の特大ブーメランが刺さったまんまアーサー・フレックを思うなどした

※本文は「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」のネタバレを含む要素があるため、ご注意ください

先日、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観てきた。
前作の「ジョーカー」が公開されたのは2019年だから、5年越しの続編となる。

私事ながら、5年前といえばちょうど仕事を辞め、再就職を図るも摂食障害の悪化で心身ともにズタボロになっていた時期だ。
働ける状態ではないと自宅療養を言い渡され、情緒の浮き沈みが激しかった頃。
それでも、もともと「ダークナイト」のジョーカーに対して思い入れがありまくる私は、「ジョーカー」を観たいと父に頼み、映画館に同行してもらったのである。
結果的に、決してメンタルが健康でなかった私は、本編にがっつり凹まされた。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に次いで、個人的に【もう1回見るのはきついですアワード】にランクインするくらいにはしんどかった。

当時の衝撃がいまだに残っていたもので、正直、今作を見に行くかどうかは迷うところだった。
ただ、あの頃より(体調面はともかく)メンタル面は回復しているし、レディーガガ観たいし、と勢い任せで映画館へ。

ちなみに、前もってネタバレを踏まない程度に「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」について検索してみると、「賛否両論」の意見が目立っていた。
鑑賞後、「そうなるのもわかるわな…」と、納得はしたのだけれど。
私自身はこの作品が好きだと感じたので、そのお気持ちについて書き残しておきたいと思う。

ジョーカーとはなんぞや

そもそもジョーカーとは、バットマンに登場するヴィランのひとり。

ワーナー・ブラザースの公式では「殺人アーティスト、混沌の案内人、犯罪界の道化王子」と称されている。そうっちゃそうなんだけど、二つ名の字面すげぇな。

私はアメコミ原作については未読で、ジョーカー登場作というと
・ティム・バートン版「バットマン」
・「バットマン ダークナイト」
・「スーサイド・スクワッド」
この3作くらいしか押さえられていない。

浅い知識のなかでも、道化っぷりがはじけているイメージが強いのは、ティムバ版やスースクのジョーカーだろうか。
完全にやばい奴だし、お知り合いにもお近づきにもなりたくはないが、なぜか引きつけられるキャラクターだ。

一方で「ダークナイト」のジョーカーは、ある意味で突出しているというか、ヴィランを超えた“悪”そのものを体現していると思う。
バットマンはゴッサムの平和を守るために闘っているわけだけれど、その存在意義は悪役あってこそ成り立つもの。つまりバットマンのアイデンティティーは悪と表裏一体で、その現実をこれでもかとブルース・ウェインに突き付けてくるのが「ダークナイト」のジョーカーなんである(個人的見解)
また、ジョーカーは人の心のなかにある負の感情を焚きつけ、炎上させるのがとても上手い。ハービー・デントの強い正義感も、ジョーカーの罠によって180度反転させられる。そら、ブルースもゴードンも絶望もしたくなるわけで。
ジョーカーは、悪意は誰にでもあるのだと、いつでも善から悪に転じ得るのだと、バットマンだけでなくこちら側にも囁いてくる。
だから、「ダークナイト」のジョーカーは、悪の概念が服を着て歩いているのと同じだと私は思っている。

社会から転落した人間としてのジョーカー

この「ダークナイト」と比べると、「ジョーカー」「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」のジョーカーはよっぽど人間らしいのではないか。

「ダークナイト」のジョーカーは自身の経歴を語るにつけても内容を二転三転させていて、とかく得体が知れない。だから、理解できないものに対する恐怖感さえ覚える。

反対に「ジョーカー」1作目では、アーサー・フレックという人物が変容していく過程を、リアリティを伴いながら容赦なく描いている。
夢破れ、愛を得られず、けれど何者かでありたいし必要とされたいと願う、ひとりの人間。
その姿に、全てではなくとも自分との共通点を見出し、他人事ではない痛みを感じた人も少なくないのではだろうか。

結果的にアーサーは孤独から救われることなく、“ジョーカー”になってしまうわけだが。

アーサー・フレックは"ジョーカー"なのか?

続編となる「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」では、いよいよ悪役として大暴れするのかと思われていただろう。
実際、宣伝文句もそんな感じだったし、なんたってあの“ジョーカー”なんだから期待するなというほうが無理な話だ。

けれどその期待が裏切られてしまったがために、作品そのものの評価が割れる事態になっているんだと思う。
(この点はすでに各方面で言及されているので、私なんぞが言うまでもないのだけれど)

「フォリ・ア・ドゥ」の観客は、アーサーに“ジョーカー”足ることを求めている。
常軌を逸したヴィランを、理解不能なサイコパスが登城することを望んでいる。
つまり、そいつが好き勝手に振る舞う様を、嫌悪と恐怖をもって遠巻きに眺めていたいのだ。
異常さを認識できる自分自身は正常だと、カタルシスを得られるように。

ここまで考えたときに、私の心にとんでもないブーメランが刺さった。
「なんか思ってたんと違う」と感じれば感じるほど、私たちがアーサーの顔にメイクを塗りたくり、ステージに建てと追い立てているようなものじゃないか?
そのくせ、いざ舞台の幕が開けるときには、私たちは客席に座っている。
彼がひとりでもがく姿を傍観しながら、アーサーに“アーサー”であることを許さない。

さらに笑えないことに、「フォリ・ア・ドゥ」の登場人物たちも、アーサーに向き合っているとはいえないだろう。
アーサーの弁護士は"ジョーカー"を別人格と主張して裁判を闘おうとするけれど、「過去のトラウマからの防衛反応」という見方は型にはまりすぎていて、どこか薄っぺらい。
精神病院の看守たちにとってアーサーは自分たちと同列ではなく、その扱いはひどいものだ。
アーサーの気持ちは誰にも理解されず、精神病患者や囚人というレッテルだけが貼られている。

そして、今作のハーレイ・クイーンたるリーは、誰よりも"ジョーカー"としてのアーサーに執着している。リーからの愛を得るには、アーサーは"ジョーカー"でなくてはならない。
ここにもやっぱり、アーサー・フレックの居場所はない。
作中でアーサーとリーが絡むシーンではミュージカルが多いのも、虚構の愛や幸せを象徴しているようで、鑑賞しながら次第に居た堪れなくなってきた。
辛い現実からの逃避としてミュージカルを当てはめているのなら、さながら映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のようで個人的には辛すぎる。

余談だが、ハーレイ・クイーンといえば、今まで私が見てきた作品だと
ハーレイ→→→→→→→→→(←)ジョーカー
くらい、気持ちの比重に差があるイメージだった。

なので、ハーレイの方がジョーカーに対して影響力が大きいという関係性には、かなり驚かされた。

そして私は、リーが割と簡単かつ頻繫にアーサーと面会できていたり、ミュージカル比率が高かったりする点から、「彼女は本当に存在していたのか?」という疑問を感じている。
さすがにリーに関するすべてがアーサーの想像の産物、とみなすのは暴論かなあとも思うのだけれど…(ほぼ2時間以上、妄想劇場をみていたなんてオチはそれこそ笑えないジョークだ)

ただ、リーとの交流に現実と虚構が入り混じっていたのだとしても、アーサーが自ら「どうしても"ジョーカー"にはなれない」と結論を出したのは確かだろう。

結果、リーはアーサーを見限り、観客は心底落胆した。
本来なら悲劇といいたいところだが、ここでようやく、"ジョーカー"ではないアーサー・フレックの世界が戻ってきたのではないか。

ラストには、正直すっきりしない。でもその感情は、"ジョーカー"であることを強いた側の後ろめたさに起因するんじゃないかと思う。
「"ジョーカー"なんていなかった」
そう語られることが、アーサーにとっての救いになればいい。
それは同時に、私たちにとっての免罪符にもなり得るのだから。

1人の2人狂い

ちなみに、タイトルの「フォリアドゥ」が精神病の一種だということを今回初めて知った。フランス語で、2人狂いを意味するそうで。

妄想を持った人物Aと,親密な結びつきのある健常者Bが,あまり外界から影響を受けずにいっしょに暮らしている場合,AからBへと妄想が感染し,妄想を共有することがある

https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1661100741

これはアーサーとリー、ないしはジョーカーとハーレイを示唆しているようだけれど、アーサーとジョーカーでもあるんじゃないかと。
そう解釈すると、オープニングのアニメーション映画とも、なんとなく親和性を感じる言葉だ。

「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は、アーサーとジョーカー2人の帰結として、これ以上ない完結編だと私は思う。

願わくば、「"ジョーカー"なんていらない」といえる世界であるように。


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