明晰であろうとすればするほどに、いっそう不明瞭さが増していくタイプの文章について

こころみとして、ここに3冊の本を挙げてみます

夜、このうち2点目の島尾伸三さんの『生活』を読みおわって、いまいち何かことばにしきれないものを感じながら眠ったところ、悪夢のようなものをみて冷や汗をかきながら目が覚め、アッと思ったので、午前2時にこの文章をかいています

その夢というのは(じっさいには悪夢でもなんでもないかも)、じぶんの実兄とその家族がどこかに引っ越しをしたというもので、霧のふかい丘のうえのその町では――その風景はさいきんみた映画『悪は存在しない』の風景に影響されている気もしますが――すべてのものが、昔よくあった波の入ったガラスを通したように縦横に歪んで見えて、なじんだアニメのキャラクターの遊具やなにもかもがとても奇妙奇天烈な形をして見える、それはとてもおかしいし、ある意味でこわさをもってせまってくるものだよと、その町からよこした手紙のなかで兄はそう書いていました

わたしのからだにとって、この夢のどこに怖さをかんじられたのかわかりませんが、目を覚ましてふたたび眠りに入れずにいるわたしは、島尾さんの『生活』を読みたいとおもったそのきっかけの感想文(どなたの書かれたものだったかおもいだせません、女性だった気がするのですが)のなかで、島尾伸三氏とその家族の日常生活をエッセイのような文章と何気ない写真とでつづったこの『生活』という本のそこはかとない「怖さ」について述べられていたことを漠然とおもいだしていました、そこにその「怖さ」の理由とか原因については書かれていなかったように記憶しています

ただ、寝床で目の冴えたわたしは次のことをおもいました

  • あるものごとについて明晰であればあろうとするほどに、いっそう不明瞭さが増していくような文章があります

  • 書く人は可能なかぎり現実や感じ方に誠実であろうとして言葉を費やすが、そのぶんだけ言葉は矛盾をはらんでゆき、混迷を増し、書く人が生真面目であるためにいっそう、そこにある種のおかしみが浮きあがってきたりします

  • 確実な現実からその文章は開始される(すくなくともそのように思える)が、それについての書く人の感じ方を文字に固着しようと努力すればするほどに、現実と遠いところに文章は逢着する、現実は逃げていきます

  • 器官としての目は「これ」を見ているのですが、文章によって描かれる「これ」は「それ」から離れてゆきます

  • 「見える」ことを書いてゆけばゆくほどに浮き彫りにされ増殖するのはむしろ「見えない」ものごとのほうです

  • 「見えない」ことどもが増えていけばゆくほど、現実と「わたし」を隔てるその距離はおおきくなり、世界はまるで不透明なガラスをとおしたような見えかたになってきます

  • その結果として現実はまるで現実でないかのような浮遊感を得たり、現実の裏の顔とでもいえるような、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような怖さを得るような効果があります

最初に挙げた島尾父子の文章と――そしてなにか近い文章を最近読んだ気がして、あ、もしかして、と思ったのが――金川晋吾さんの文章、この3人の文章は、完全に上に書いたことに当てはまるかどうかは昼の時間に明晰な頭で考えればすこし違うかもしれないのですが、しかし上に書いたような意味で似たところがあるように思ったのでした、そして、伸三氏と金川さんがどちらも写真家であることに、何かあるかもしれないと思いました

幻想的、と言ってしまえば言えるかもしれませんが、そう一言で片付けてしまえるほど事態は簡単なものでもないでしょう そこに書かれているものじたいはなんら幻想的なものではなく、あくまで「生活」でしかないわけですから この人たちの文章をつうじて「生活」がなにか別のくらい、異世界とか裏側へとつながるような、底の抜けた感じのニュアンスを帯びてくることはほんとうにふしぎです

もしかしたらわたしが敬愛する立岩真也さんの文章にもこういう側面があるかもしれず、わたしじしんは、このようなタイプの文章になんともいいがたいセクシーさがあることをいなめず、独特の匂いと魅力をかんじることだ、というのがいま午前3時のわたしが思ったことでした

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