年末に読んだ2冊の本(『こびとが打ち上げた小さなボール』と『チボー家の人々』)
年末はほとんどチョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』とデュ=ガール『チボー家の人々』で暮れた。斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』はすばらしい本で、紹介される本はぜんぶ読みたくなるが、中でも『こびとが打ち上げた小さなボール』は気になってすぐに買った(この二冊はどちらもカライモブックスさんのおすすめでもある。ありがとうございました)。▶︎驚くほどよかった。いくつかの点でプラトーノフ、特に『土台穴』を思った。全体を支配するものすごい疲労感、その中で突如光明を放つ宇宙からの光、具体と抽象(現実と喩)・現実への肉薄と疎隔のバランス、は特に色濃くプラトーノフらしさを感じた。例えば、リアリズムの中に突然「僕らの食卓には、先祖の代から流れ流れてきた時間の束が載っていた」(p.123)というような一文がいきなり挿入されるのである。斎藤さんの跋文によれば、この作品は「リアリズムVSモダニズム」の図式のなかで議論の的になったそうである。その経緯さえプラトーノフにそっくりであって、引用されている「こんなに難解では労働者自身に読めないではないか」というチョさんに対して投げつけられたという非難は、そのままプラトーノフについても言われたことである。『土台穴』の成立は1930年頃、長く公刊は禁じられて、1969年に西側で、87年にソ連で公刊された。はじめての韓国語訳は、現在は小説家としてブッカー賞の候補に挙がってもいるスラヴ文学研究者チョン・ボラさんの手によるもので、2007年に出ている(その後キム・チョルギュンさんの新訳も2010年に出た)。こびと連作の最初の短篇「やいば」が1975年の発表だというから、影響関係はおそらくないはずだ。▶︎『チボー家の人々』は、時代がかった、まさに翻訳調といったセリフづかいが自分にとっては懐かしいものだった。いろいろなことを語ることができるが、終盤に向かうにつれて人ごととは思えずしんどさが増す。ある登場人物が引用する言葉に「デモクラシーは、戦争に会ってまったく無力だ。戦争に会えば、たちまち火にかざした蠟のようにとけてしまう」(13, p.30)というものがあったが、この第一次世界大戦に向かう物語が、第二次世界大戦に向かう世界の中で書かれたことを暗澹とした気持ちで考える。戦争には、一人の馬鹿が思いついて勃発させるというものもあるかもしれないが、じわじわと“雰囲気”が形成され、ある日気づいたら戦うしかなくなっていた、ということがある。ロシアのことを考えれば前者に対する抵抗も相当に困難だが、難しいのは後者だ。なし崩しに行われるものだから、止め時がわからない。フランスの作家だからこの作品ではおよそフランス人の心境について書いていて、悪のドイツに対して正義のフランスという構図がいかに一般に浸透していくかということが書かれるが、そのちょうど鏡画がドイツにはあったはずである。人を殺すことは異常であるから、権力は、みずからの側があくまで正義であって、悪に対して自衛するためには戦争しかない、と言う。例えば、ウクライナでの戦争を見ながら、「人を殺すことは悪であるから戦いたくない」と述べることの困難……というより、ほとんど不可能であることを思う。「戦争しかない」雰囲気のなかでは、このまっとうな弁明も非難される。それは間違った土台に立たされ、間違った選択を強いられることであるのだが、多数派の空気に対抗するためには、政治的信念や信仰といった何かしらの拠りどころが必要とされるのかもしれない。一人では抵抗しきれないし、国家によって早晩殺されることになるだろう。『チボー』の中では、輿論が「戦争しかない」という思考に向かうさまが刻々と描かれる。戦争は、積極的に選ばれる手段というよりはむしろ、他の選択肢が徐々に消えていって、あるいは「引き返すよりはこのまま突き進んだほうが楽だ」という雰囲気が浸透することによって、ある日私たちがそのなかにうっかり入りこんでしまっているような(行為というより)状態、なのだろう。ごく単純なことを定期的にしっかりと言っておかないといけない。わたしは人を殺したくない。誰にも人を殺す権利はない。殺すことは悪である。本来そこに条件や留保があってはいけないのであって、私たちはいままでそのためにさんざん努力をしてきたのではなかったか。わたしは戦争に反対する。