声が出なくなって
目に見えない苦しみについて
今まで学びを重ね、当事者に理解ある人間、
そして今後を生きる世間の人たちに対して、
意見を述べ問題提議出来る人間でありたいと思ってきた。
そんな私が風邪で声が出なくなり、
また少しの視野が広がったなと思った話。
今まで喉は強い方だったので初めての経験。
枯れ始めは面白半分というか掠れ声から、「まぁいつかよくなるだろう」という楽観的思考。しかしそんな予想とは裏腹に日に日に悪化して最後は聴き取れない程になってしまった。
時間が長く設けられている場合や普段長く接している人とはいつもとは違う私の声から違和感を察知してくれるが、基本的に職場で明るくしていた挨拶も突然投げられた会話にも微笑むことしか出来ず、こちらからのアクションはもちろん、リターンも最低限となる。
人によっては、
「無視された」「感じが悪い」というような、
良くない印象を受ける人も多い。それは半分被害妄想に近いものだとしても、きっとわたしも、逆の立場だったら無視されたのかもしれないという思考も関係性によっては働くだろうと思う。
また声が出ないというリスクを常に抱え、外を普通に歩くという頭で考えている言動が行えないというのは、予想以上に"とても怖い"
見えない疾患を言及している身として、
この怖さは知っていたはずなのに、
「声」というある意味見えない人間に当たり前に備わっているものを失うと、突然起こるアクションに対応出来ない怖さを実感し体験した気分。
そんな時に思い出したのが、「吃音症」
ここ数年ずっと「僕らの喉にはフタがある」という漫画を読んでいた。吃音症に特別興味があった訳でもない、何となく吃音症のある男の子、そしてその周りにいる人たちの心に秘めている言葉と発する言葉、同時に両方を書いてある漫画であり、面白いなぁという気持ちで読んでいた。
※吃音症は吃りとも表現される、
途中まで発した言葉が突然音として出なくなる。
自分は風邪での体験だったけど、
きっと近いものがある。
毎朝声の調子を確認して発生の練習をする。
今日は調子が良いな、
どうしよう全然出ない……
小さな音の中で不安感を拭うためのそんな繰り返し。
言いたいのに言えない、
一生懸命話そうとすると変な声が出て
話しかけてくれた人にも気を遣わせたり、
だんだんコミュニケーションは減る。
これは身をもって経験した。
とても悲しくて、そして話しかけてくれた人間が途端に異物を見るような目になる姿は、漫画で描かれていた表情そのものだった。
"当たり前"が備わっていないということは、この多様性の世の中でもまだ珍しい感覚が拭えてない。そしてそれが目に見えないものであればあるほど浸透していないのが現実だ。
話せなくなって思ったのは
やはり違和感を感じたのなら、
質問して欲しい。
ということ。
これは"声"に限らない話したと思う。
重く捉えなくて良いから軽い気持ちで、
どうしたらいいのか、聞いて欲しい。
声 だったら話しかけていいのか、
かけない方が良いのか、
そのような自分には何が出来るのか聞く。という動作自体が誰1人「孤独」にしない行動なのではないか。
声がある私はこれからたくさんの言葉を話したいとも思えたし、なってみないと分からないこと、視野の広がりは経験して初めて得るものがある。だから経験出来ない人間が想像で語らないために、聞く、そして学ぶ。
そして今回私の場合は、一時的であり、当事者の1/100 程の声の悩み抱える人たちの苦しみを身を持って体験し、見えた世界があった。だからこそ今経験できて良かった。
これから先の人生に影響がある体験となった。