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『十一人の賊軍』と『峠』

「ワシは賊ら!十一人目のな!
 この台詞を聞くと、『仁義なき戦い』の「弾はまだ残ってるがよお」にはまだ引き上げる程の余裕があったのだなとつくづく思う。
 『仁義なき戦い』を手掛け『十一人の賊軍』をプロットとして遺した笠原和夫(2002年没)の遺志は、白石和彌にも池上純哉にも引き継がれ、『仁義なき戦い』との違いをかなり意識していたのだろう。

 だから仲野太賀が演じる決死隊のリーダー兵士郎の見栄の切り方がテーマそのものなのでタイトルが「十一人の賊軍」ではなく「十一人目の賊」にしてもよかったのにとも思ったが、ネタバレになるのでそうはいかなかったのだろう。
 『十一人目』とくればどうしても長州藩出身の架空の人斬り(4大人斬りに長州はいない)を主人公にした『十一番目の志士』(司馬遼太郎)を思い出してしまう。

 少数派にはなりたくないという国民性なのか、おそらく日本国民は絶対に賊軍になりたくないという意識がインプットされているのだろう。
 筆者を含め今でも忖度をすることで多数でいられるという無自覚な意識が充満しているのだ。だからドリームとして、「判官贔屓」という言葉だけが一人歩きし、虚しく響くのである。その中であえて自ら「賊」と名乗ることで「官」というものの欺瞞さを炙り出すのが本作の意図なのだ。

 そして「十一人の賊軍」は、名を残すことなく虫ケラのように潰される。それに一矢報いるがために、白石は、散っていく者たちとあくまで同じ目線に立っているが、別の目線も外していない。

 無論、新発田藩家老城代家老溝口内匠頭のことである。
史実としても、「戊辰戦争では、新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した」(ウイキペディア 新発田藩から)ように

 内匠頭は、城下を戦火から守るために、周辺諸藩に隠して新政府軍(官軍)と取引に応じ、罪人たちを捨て石にして「賊軍」として官軍と戦わせ時間稼ぎするだけでなく病人たちすら犠牲にする。
 脚本の池上は白石との対談で「新発田には古い建物がたくさん残っていて感動した。長岡はぜんぜん残ってないから。」と明かしている。「官軍に町を焼き払われてしまったので、新発田は周りに嘘をついたけど町は残った。そういう視点から見ると、内匠の選択は政治家としては正しいとも言える」と。
 確かにマクロの視点ではその通りであり、いわば「最大多数の最大幸福」を用いるベンサムを体現しているのが内匠なのだ。筆者も自分が安全な場所で鑑賞しているから賊軍たちと同じ目線でいられるが、もし自分が新発田藩の民であったら、「誰かの犠牲で全員が助かるのは間違っている」などとは言わないだろう。

 本作は当然のことながら黒澤明の『七人の侍』からも影響が色濃く出ているが、単純なリスペクトとは違う。

 3年前(2022)に上映された『峠 最後のサムライ』の監督は黒澤明の助監督だった小泉堯史だが、黒澤の遺作である『雨あがる』(2000)を映画化している。

白石の師は若松孝二、小泉の師は黒澤明だが
 低予算ピンク映画を量産し、性と暴力を追求した若松についた「ピンクの黒澤明」という名称について白石はどう思っていたのだろう。一応はヒューマニズムや普遍性を持ち合わせている黒澤映画と違い、生涯叛逆というテーマを貫いた若松の弟子白石にも当然黒澤やその弟子に「異端」として「正統」に勝つ気まんまんに違いないのだ。

 だから本作は、題材としては同じ戊辰戦争をテーマにした『峠』に因縁があり、黒澤の弟子筋が監督を務めたその『峠』の監督に因縁があるのである。

 また前述したように新発田藩と隣藩である越後長岡藩の複雑な明暗を吐露する池上は、長岡の歴史を主にした役所広司主演映画『峠』についても言及している。
 池上は白石以上に黒澤にだけでなく、長岡藩、つまり『峠』への対抗意識を感じる。

 「峠」という作品の原作者が司馬だからということもあって(大河ドラマの原作の一部にもなっている)主人公である長岡藩家老河井継之助は他のフィクションの中でも今や幕末の英雄となっているが、繰り返すが長岡藩は官軍に焼き払われているのだ。「最後のサムライ」、「北越の竜」ともてはやされ河井継之助記念館まで建てられているが、長岡市民の賛否は今でも激しい。

 佐幕にも倒幕にも与せず長岡藩の独立を貫こうとした継之助が賞賛され、新発田藩の行動は大バッシングを受けた一方で、継之助自身も長岡を荒廃された張本人、戦争責任者として非難の声は現在に至るまで続いているのだ。(ウイキペディア 河井継之助から)。

 内匠頭を演じる阿部サダヲは実は昨年に『リボルバー•リリー』ではなんとあの山本五十六を演じているのだ。時代は真珠湾攻撃から17年前に遡るが、当時はまだ大佐で戦争回避の努力をしつつ主人公の命を保障しないという同じような立場だ。しかも五十六は継之助と同じ出身で父親は旧長岡藩士だが、作中で行うことは内匠頭と同じなのである。つくづく新発田藩と長岡藩の因縁を感じてしまうのだ。

 黒澤明に対抗意識を感じると述べてしまった以上『七人の侍』との比較に触れないわけにはいかない。
 本山力演じる爺っつあんは、「追憶の剣豪」久蔵だということは既に多数の意見が占めている。SNSで、十一人の賊軍、久蔵、宮口精二で検索すれば、結果はかなりの膨大さだ。というより誰も否定しないと思う。

 ただ山田孝之が演じる政は菊千代だという意見には、立ち位置としてはわかるし、山田個人も菊千代役に合っているのだが、やはり菊千代と政は同一人物には見えない。山田自身も菊千代をベースに演じているとも思えなかった。
 むしろ尾上右近が演じる詐欺師の赤丹が近いように思えた。
右近がパンフレットで明かしているように、すでに絶命していることでわかる赤丹のあっけない死に様と、「風が吹いてきやがったぜ」という台詞に勝手に菊千代を感じてしまうのである。「池上さんは赤丹が大好きなんだろうな」と白石にバレていることを池上は嬉しがっていた。

 追記になるが、花火師の息子ノロ(佐久本宝)のことは、何故か気になった。『七人の侍』に該当する人物は見当たらないが、知的障害の設定はあるものの、サヴァン症候群の傾向を感じるのは筆者の気のせいだろうか?それは生き残ったなつ(鞘師里保)と同様に微かな希望を感じさせるのは決して悪いことではないが、気のせいでなければ同時に安易さも感じてしまっている。


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